⭐【第133回】「秋の彼岸」/「仏法」と「煩悩」解脱への希求《後篇》―親鸞聖人「浄土真宗(大乗仏教)」/「煩悩即菩提」「悪人正機説」「他力本願」―
⇧大阪市天王寺区「一心寺 三千佛堂」内の中央(金色佛)、「阿弥陀三尊」(阿弥陀如来・観世音菩薩・勢至菩薩)の障壁画
※本稿内容は筆者の個人的見解であり、筆者所属組織(現在および過去)の公式見解を示すものではありません。
(執筆中)
本稿前篇では「彼岸」(ひがん)について、「生死輪廻」(しょうじりんね)する「煩悩」(ぼんのう)を河や海の流れに例え、煩悩を「解脱」(げだつ)して達する「向こう岸」すなわち「悟りの境地」「菩提」(ぼだい)あるいは「涅槃」(ねはん)をいい、これに対して煩悩に満ちたこの世(現実世界)は「此岸」(しがん)であることに触れた。また、衆生を悩まし害し誤謬に導く不善の心を煩悩と呼び、生死輪廻の因果とは、煩悩のゆえに業が展開し、煩悩と業とが原因となって生(苦的生存)が結果することにも触れた。
仏教では、煩悩は「迷」(めい)であり「惑」(わく)であるので、この煩悩を断ち切ることが、迷の此岸より悟の彼岸に到る「到彼岸」(とうひがん)「波羅蜜多」(はらみた)であるとされる。そしてそれに向けた六つの徳目「六波羅蜜」(ろくはらみつ)が説かれた。すなわち布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧である。このようにして煩悩を滅尽し欲望を断ち切って心の平静(寂静)を得、正覚を開いた聖者が「阿羅漢」(あらかん)(羅漢)であり、再び輪廻(りんね)の苦に陥ることがないとされる。
しかしこれに対して、上述を「小乗」(しょうじょう)すなわち「限られた少数の人間しか救われない」としたのが、鎌倉時代初期の親鸞聖人(しんらんしょうにん)が開いた念仏思想、「浄土真宗」の神髄にある「大乗(だいじょう)仏教」である。大乗では「煩悩即菩提」(ぼんのうそくぼだい)が説かれる。つまり煩悩に囚われている姿も、その本体は真実不変の真如(しんにょ)すなわち菩提(悟り)であって、煩悩と菩提は別のものではなく一体、すなわち相即不二(そうそくふに)であるとされる。なお「南無阿弥陀仏」(なむあみだぶつ)の念仏は、これを聞き称え、阿弥陀仏に救われることへの感謝の心を込めるものである。
また、煩悩深重(じんじゅう)である悪人ほど阿弥陀仏による救済の主対象であるという「悪人正機説」(あくにんしょうきせつ)も説かれる。親鸞聖人の法語録『歎異鈔(たんにしょう)』に、『善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや』とある。「善人」(自力で修行する人)は己の能力で悟りを開こうとして仏に頼らんとする気持が薄い。そうした善人ですら往生できる。一方で、煩悩に囚われた「悪人」(罪深い凡夫)は仏の救済に頼るしかないとの気持が強いため、まさに言うまでもなく阿弥陀仏に救われるとした。すべては阿弥陀仏の本願によるとの「他力本願」の思想につながる。この思想は親鸞聖人が師事した法然上人(ほうねんしょうにん)から受け継いだもので、阿弥陀仏の限りない大慈大悲から出ている。
以下は9年前当時にまだ心身とも壮健であった母と初詣に訪れた、大阪市天王寺区「一心寺」境内東側に所在の「三千佛堂」である。大回廊には寄進により順次造立奉安される仏像「千躰佛」(せんたいぶつ)、また干支に相当する「十二神将」(じゅうにしんしょう) が安置されている。一心寺は、法然上人が開いた「浄土宗」の寺院である。








