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【第15回】未曽有の高値更新―「大阪証券取引所」所縁(ゆかり)の地<1/4>―「堂島米会所」篇―

文月(ふみづき、「穂含月/ほふみづき」とも)に入り、国内は株価と歩調を合わせて蒸し暑さも急上昇。今週、ほぼ10日ぶりに戻った梅雨空の下、大阪市中央区は北浜の「株式会社 大阪取引所」(アクセス | 日本取引所グループ (jpx.co.jp))(以下、「大阪取引所」)を訪れ、5階「OSEギャラリー」などを見学しました。

株式会社 大阪証券取引所(Osaka Securities Exchange)」(以下、「大阪証券取引所」)は2013年(平成25年)1月、「大阪証券取引所」を存続会社として「株式会社 東京証券取引所グループ」(以下、「東京証券取引所」)と経営統合、「株式会社 日本取引所グループ」(JPX:Japan Exchange Group)の「大阪取引所」へ商号が変更されました。これにより、株式の「現物取引」はすべて「東京証券取引所」に移管されるとともに、「東京証券取引所」で扱われていた「TOPIX先物」「長期国債先物」などの「デリバティブ取引」が「大阪取引所」に移管されました。こうして「大阪取引所」は、「市場デリバティブ」(※1)に特化した専門取引所として位置付けられることとなりました。

2024年(令和6年)7月11日の東京株式市場で、「日経平均株価」の終値(おわりね)は、前日比392円03銭高の4万2,224円02銭と、3日連続で史上最高値を更新しました。またこれに符合する様に、同月3日、新紙幣(日本銀行券)が発行され、一万円、五千円、千円の3券種が改刷となりました(※2)。これは前回2004年(平成16年)11月1日以来、20年ぶりの改刷となります。新一万円札の肖像には、その生涯において、「第一国立銀行」(現:株式会社 みずほ銀行)や「東京商法会議所」(現:東京商工会議所)、「東京株式取引所(現:株式会社 日本取引所グループ 東京証券取引所をはじめ、約500におよぶ企業設立等に関わり、日本資本主義の父と称される「渋沢栄一公」が選ばれました。

紙幣等の製造(印刷)は「独立行政法人 国立印刷局」(国立印刷局ホームページ (npb.go.jp))の所管であり、同公はその初代「紙幣頭」(現在の理事長にあたる)に就任しています。一方、硬貨等の製造は「独立行政法人 造幣局」(造幣局 (mint.go.jp))の所管であり、当時閉鎖状態にあった香港造幣局の機械一式の購入に尽力し、その創業に貢献したのが、「東の渋沢、西の五代」と並び称された実業家「五代友厚公」(Tomoatsu Godai)でした。同公をはじめとする発起人により1878年(明治11年)に設立された「大阪株式取引所」は「大阪証券取引所」の前身にあたります。

今回は【第15回】から【第18回】までの四部作(tetralogy)として、年初来の株価上昇局面をなぞるとともに、年代を追って、「大阪証券取引所」所縁(ゆかり)の地である「堂島・中之島~淀屋橋・北浜」周辺について触れたいと思います。

(※1)デリバティブ(derivative):金融派生商品、「先物取引」や「オプション取引」など
・先物取引:あらかじめ定めた将来の期日に、あらかじめ定めた価格で売買することを約束する取引
・オプション取引:あらかじめ定めた将来の期日に、あらかじめ定めた価格で「買う権利」または「売る権利」を売買する取引
(※2)改刷:国立印刷局(新しい日本銀行券特設サイト|TOPページ (npb.go.jp)

⇧「大阪取引所」前の「五代友厚公」像、制作:日本芸術院会員 中村晋也氏、2004年(平成16年)

⇧「大阪取引所」正面玄関ホール、吹抜け空間(atrium)と株価ボード(60インチモニター×16面組み)の様子

⇧「大阪取引所」近辺の「光世証券株式会社」本社ビル入口でも窺える「五代友厚公」像、制作:日本芸術院会員 中村晋也

同証券会社は「大阪証券取引所」初代理事長の「巽悟朗氏」により創業。写真の「本社ビル」は、外壁にイギリス製煉瓦(れんが)が積み上げられ、イタリア製鍛鉄による金物と組み合わせられた特徴的な構造と建築様式は、近隣地区において独特の存在感を醸し出しています。設計は永田・北野建築研究所。

我が国における取引市場の起源を辿ると、江戸時代初期(17世紀前半)、大坂で当時最大の豪商「淀屋」(※3)が米価の安定のため、淀屋橋南詰の門前に創設した「淀屋米市」(よどやこめいち)にまで遡ります。この「淀屋米市」は1697年(元禄10年)、堂島新地の開拓が進んでいた堂島川の北岸に移転されました。続く1730年(享保15年)、(米将軍と呼ばれた)幕府8代将軍の徳川吉宗公は、大坂堂島に開設された「堂島米会所(米市場)」を公設先物取引市場として公認当時の堂島(中之島周辺)には、諸藩の蔵屋敷が次々とでき、全国各地から年貢米の多くが運び込まれました。

この年貢米は入札制によって米仲買人に売却され、落札者には「米切手」という1枚当たり10石の米との交換を約束した証券が発行されました。この「米切手」には、未着米や将来の収穫米も含まれ、これらが盛んに売買される様になりました。ここでは、「正米(しょうまい)取引」(「米切手」を売買する現物市場)と「帳合米(ちょうあいまい)取引」(米の代表取引銘柄を帳面上で売買する先物市場)の両者が行われました。「帳合米取引」は「三季商内(あきない)」と称し、1年を3季(期限4か月)に分けて取引されました。

近代取引所に通じる会員制度、清算機能などが整えられた「堂島米会所(米市場)」は、我が国における「取引所」の起源とされるとともに、世界における組織的な「先物取引所」の先駆けとして広く知られています。「堂島米会所(米市場)」で形成された米価は、飛脚や旗振り通信などによって、江戸や地方の主要都市まで伝えられ、各地の米相場の基準となりました。こうして大坂堂島は、蔵屋敷が立ち並び多くの船が行き来する「水都」また「天下の台所」と呼ばれ、我が国最大の市場となりました。そして、ここで培われた取引制度や慣行の多くが、明治期以降の商品・証券・金融先物取引所に受け継がれました。

(※3)淀屋:「淀屋」初代の「常安」(じょうあん)は、豊臣秀吉公が伏見在城の時に淀川の築堤工事を請負って財を成した後、「大坂の陣」では徳川方に与し(くみし)て、大坂三郷の惣年寄にも任ぜられ、中之島の開拓にも力を尽くしました。また2代「个庵」(こあん)の時に、靭(うつぼ)への海産物市場の開設、西国諸藩の蔵米取り扱い、「米市」の開設、金融業や廻漕業など、経営の多角化を図り、2代で巨万の富を築きました。

⇧「淀屋橋」南西岸に建つ「淀屋の碑」

⇧(写真上、左下)堂島川沿いの「稲に遊ぶ子供」の像、制作:彫刻家 横江嘉純氏、1953年(昭和28年)寄贈、(写真右下)「中之島ガーデンブリッジ」、川向に覗くのは「日本銀行 大阪支店」(「五代友厚公」旧邸)と「大阪市役所」

⇧(写真上)「堂島米市の図」(浪花名所図会)、安藤広重画、(写真左下)「堂島米市場」(浪花十二景ノ内)、笹木芳光画、(写真右下)「佐賀藩蔵屋敷跡」石碑、奥に覗くのは「大阪高等裁判所」等の建物

(【第16回】へ続く)

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