【第16回】未曽有の高値更新―「大阪証券取引所」所縁(ゆかり)の地《2/4》―「五代友厚公」篇―
※本稿の内容は筆者の個人的見解であり、筆者が所属する組織の公式見解を示すものではありません。
(【第15回】から続く)
今回は、前回【第15回】でみた「堂島米会所」の系譜を明治期に受け継いだ「大阪株式取引所」が、戦前(大東亜戦争)まで果たした役割と、その功労者である「五代友厚公」について具体的に触れたいと思います。
「五代友厚公」は薩摩藩士の出で1836年(天保6年)生まれ、元薩摩藩士で初代内務卿の「大久保利通公」より6歳年下、元長州藩士で初代内閣総理大臣の「伊藤博文公」より5歳年上、また実業家で「日本資本主義の父」と称される「渋沢栄一公」より4歳年上にあたります。「五代友厚公」は1865年(慶応元年)藩命(密航)により、英国貿易商人「Thomas Blake Glover」(※1)の協力を得て「薩摩藩遣英使節団」を引率し欧州各国(英国・オランダ・ベルギー・プロシア・フランス)を歴訪・視察。帰国後は、薩摩藩家老で維新功労者の「小松帯刀(たてわき)公」や「Thomas Blake Glover」などとともに、長崎の「小菅修船場(こすげしゅうせんば)/長崎製鉄所」(日本初の西洋式ドックで現:三菱重工業長崎造船所)の建設に関わりました。
1868年(慶応4年)に明治政府へ出仕、参与職 外国事務局判事また大阪府判事(現:知事)として大阪在勤、外国貿易関係事務をはじめとして大阪「川口運上所(うんじょうしょ)」(現:大阪税関)における一切の事務を管轄しました(初代大阪税関長)。こうして外国貿易に精通した同公は、大阪開港にあたり、外交事務、大阪港の整備、外国人居留地の建設、松島遊郭の設置を図るとともに、外国人の不正不法行為に対しても厳格な取り締まりを行いました。また、政府に「造幣寮」(現:独立行政法人 造幣局)の設置を進言、「Thomas Blake Glover」を通じ、当時閉鎖状態にあった香港造幣局の機械一式の購入契約を結びました。
1869年(明治2年)に官を辞し民間に投じて後は、在来産業の組織化や近代化を推し進め、大阪経済界発展の礎を築きました。1876年(明治9年)には同公が中心となって「保証有限会社 堂島米商会所」が設立(再興)されました。続いて1878年(明治11年)5月に制定・布告の「株式取引所条例」に則り、同公や鴻池・三井・住友などの豪商(財閥家)が発起人となって、同年6月に「大阪株式取引所」が設立されました。
こうして、ひと月前の5月に「渋沢栄一公」などを発起人として、東京の「兜町」に設立された「東京株式取引所」に次いで、我が国で二番目の公的な証券取引機関が誕生しました。「東の渋沢、西の五代」と並び称されるとともに、同取引所は戦前(大東亜戦争)の大阪経済界の中心地となりました。同公は「大阪株式取引所」や「造幣寮」の他にも、「大阪商法会議所」(現:大阪商工会議所)初代会頭、「大阪商業講習所」(現:大阪市立大学)、阪堺鉄道(現:南海電気鉄道株式会社)など、数多くの事業や会社の設立に大きく関与しています。
※出典:株式会社 日本取引所グループ、「五代友厚について」(沿革 | 日本取引所グループ (jpx.co.jp))
※出典:大阪商工会議所、「大阪の恩人 五代友厚」(五代友厚|大阪商工会議所 (cci.or.jp))
(※1)Thomas Blake Glover:英国(スコットランド)出身の貿易商人で、長崎を拠点に「グラバー商会」を設立、江戸時代の幕末から維新期に倒幕派への軍事物資支援、また維新後の日本の産業界発展に多大な関与
⇧「大阪株式取引所」設立関係文書、「大阪取引所」5階「OSEギャラリー」展示
(写真左上)「株式取引所設立趣意書」、1878年(明治11年)4月、末尾に「五代友厚公」の署名。
(写真右上)「大阪株式取引所 開業免状」、1878年(明治11年)5月、大蔵卿「大隈重信公」名にて許可。
(写真左下)「大阪株式取引所 創立株主人員姓名便覧」(株主名簿)、1878年(明治11年)、「株数・属籍(爵位)・住所・姓名」欄が設けられ、筆頭株主に(第一号から)「五代友厚公」や鴻池・三井・住友等の豪商(財閥家)の名が、また第十二号(と思われる欄)に「渋沢栄一公」の名も窺えます。
(写真右下)「株式会社大阪株式取引所 株券」、1879年(明治12年)。
以下は、株式会社 日本取引所グループウェブページ「株式取引所開設140周年>沿革」から引用、要約。
日露戦争の講和条約として「ポーツマス条約」が締結された後、1907年(明治40年)初まで、当時人気のあった鉄道株や紡績株、工業株を中心に全面高となり株式人気は頂点に達しました。一方、「東京株式取引所」株(東株)や「大阪株式取引所」株(大株)も市場で人気を集めるようになり、1908年(明治41年)以降は鉄道株に代わり市場を牽引する花形株となり、上場廃止になる1943年(昭和18年)まで東株・大株主導型の市場が続きました。
第一次世界大戦により、日本経済は輸出の急増や金融緩和を背景に急速な成長を示す一方で、1920年(大正9年)3月15日には大量の売り物から空前の大暴落となり2日間立会を停止するなど市場の混乱もみられました。1923年(大正12年)9月1日の「関東大震災」では、「東京株式取引所」の建物も全焼し、兜町一帯が焼野原となった中、同年10月27日から焼け跡の天幕内で株式の現物取引を開始しました。その後、株式市場は回復し、兜町はすっかり近代的な街並みに生まれ変わりました。
1929年(昭和4年)10月24日、「ニューヨーク株式市場」で株価が大暴落したことに端を発した世界大恐慌の波に見舞われ、わが国の経済は長期の不況に陥り、兜町・北浜も度重なる暴落のため、沈滞の度を深めました。「満州事変」を機に、日本の経済政策は戦時体制に大きく転換され、証券市場も急速に統制色が濃くなってきました。この頃、既存の財閥や新興財閥が外部資金を導入するために公開した株式は取引所に上場され、一般投資家の人気を集め始めました。
1943年(昭和18年)6月30日、国策により「東京株式取引所」をはじめとした全国11の株式取引所を統合して、新たに営団組織「日本証券取引所」が設立され、「東京株式取引所」は本所として、「大阪株式取引所」は大阪支所としてスタートしました。しかし、大東亜戦争の戦局が悪化するにつれて、株式市場は急速に活気を失っていきました。
1945年(昭和20年)、大東亜戦争中も取引所での株式売買は続けられました。しかし、戦局が悪いという噂が次第に広がると、株価は下落をはじめ、同年3月の「東京大空襲」の後は、政府が無制限に株価を下支えする「官製相場」となりました。そして、同年8月10日、広島と長崎に原子爆弾が投下されたとの情報が入ると市場は停止し、それ以降、1949年(昭和24年)に取引が再開されるまで、3年9か月の間閉鎖が続きました。
※出典:株式会社 日本取引所グループ、「株式取引所開設140周年>沿革」(株式取引所開設140周年 | 日本取引所グループ (jpx.co.jp))
明治初期の政局に「五代友厚公」が大きな役割を果たしたものとして「大阪会議」があります。征韓論をめぐる「1873年(明治6年)10月の政変」により政府首脳が分裂した状況下、混迷する政局を打開すべく、同公の主宰・斡旋により、1875年(明治8年)1月から2月にかけて開催された同会議は、「立憲政体の樹立」「三権分立」「二院制議会の確立」といった案件について協議された、明治憲政史上に特筆すべきものでした。同会議では、「大久保利通公」「木戸孝允公」「板垣退助公」といった時(とき)の明治政府要人(薩・長・土)に、仲介役の「伊藤博文公」「井上馨公」を加えた首脳が、大阪北浜の料亭「花外楼(加賀伊)」(北浜本店のご紹介 | 大阪の老舗料亭 花外楼 (kagairo.co.jp))に参集し、1ヶ月におよぶ議論の末に(暫時の)合意に至り、将来的な「立憲政体」「議会政治」の方向性が示されました。
⇧「大阪会議開催の地」の石碑が建つ、現在まで続く料亭「花外楼」
⇧「花外楼」の隣接ビル壁に掲げられた、5名の参加首脳肖像の浮き彫り彫刻(relief)
⇧また、現在の大阪市西区「靭(うつぼ)公園」四ツ橋筋側入口付近に建つ「一般財団法人 大阪科学技術センター」の地には、1871年(明治4年)より「五代友厚公」邸(大阪最初の自邸)が所在し、「大阪会議」にあっては「大久保利通公」の宿所となっていました。
⇧「精藍所 西朝陽館(にしちょうようかん)跡」石碑、堂島川北岸の「NTTテレパーク堂島第二ビル」前
「朝陽館」は、五代友厚公が1876年(明治9年)、輸入品のインド藍に対抗しうる国産藍の保護と発展を期して大阪堂島に創業した精藍所(染料の藍の製造工場)です。同石碑隣には「明治天皇聖躅(せいちょく/「行幸」「足跡」の意)」石碑も。1878年(明治11年)8月に設立された「大阪商法会議所」(現:大阪商工会議所)は当初、仮事務所が「朝陽館」内に設けられていました。
⇧手前の「堂島川」と奥の「土佐堀川」に囲まれた「中之島」の遠景、大阪の大動脈「御堂筋」を挟んで建つ「日本銀行 大阪支店 旧館」(「五代友厚公」旧邸)(写真上/右側)と「大阪市役所」(写真上/左側)
「日本銀行 大阪支店 旧館」は、「五代友厚公」の最晩年、1885年(明治18年)に自邸が新築された跡地です。
(【第17回】へ続く)