【第7回】「1970年日本万国博覧会」(World Expo 1970)遺産の継承―「千里丘陵」から「夢洲(ゆめしま)」へ―《前篇》
※本稿の内容は筆者の個人的見解であり、筆者が所属する組織の公式見解を示すものではありません。
「2025年日本国際博覧会」(以下、「2025年大阪・関西万博」)の開幕まで1年を切るタイミングで、大阪府吹田市は千里丘陵に広がる「万博記念公園」の「EXPO’70パビリオン別館」【①】を訪れ、合わせて大阪市此花区の大阪北港地区にある人工島「夢洲(ゆめしま)」の会場建設現場【②】にも足を運びました。向学のため当社海外渉外顧問(無償)の Wolf(筆者内縁)を帯同しました。今回【第7回】と次回【第8回】の2回にわたり、「1970年日本万国博覧会(Japan World Exposition Osaka 1970, EXPO'70)」(以下、「1970年大阪万博」)が遺した遺産の継承について触れたいと思います。
「1970年大阪万博」は、1970年(昭和45年)3月15日から9月13日まで、大阪府吹田市の千里丘陵で開催されました。これは、アジアおよび日本で最初の万国博であったと同時に、1964年(昭和39年)開催の「東京オリンピック」以来の国家プロジェクトでもあり、高度経済成長期の日本を代表する大規模国際イベントであったといえます。「人類の進歩と調和」(Progress and Harmony for Mankind)がテーマに掲げられ、海外から76か国、4国際機関、6州、3市、1政庁が参加、183日間の会期における入場者数は約6,422万人に上りました。
今回「万博記念公園」を訪れたのは、「EXPO’70パビリオン」(旧:鉄鋼館)(EXPO’70 パビリオン | 万博記念公園 (expo70-park.jp))の「別館」に展示公開されている、<初代>『黄金の顔』の鑑賞が眼目です。同パビリオンは、「1970年大阪万博」の出展施設であった「鉄鋼館」を再利用し、同博覧会の記念館として2010年(平成22年)3月にオープン。これに続き昨夏、2023年(令和5年)8月に「別館」が増設、これまでの常設展示に加えて、「1970年大阪万博」開催時に「太陽の塔」頂部に設置されていた<初代>『黄金の顔』の展示や、各種映像による体感ゾーンなどが新設されています。
「太陽の塔」(Tower of the Sun)は、『芸術は爆発だ!』(※1)の流行語で有名な、テーマ館展示プロデューサーを務めた芸術家、岡本太郎氏の制作によります。この塔(テーマ館)は高さ約70メートルの鉄筋コンクリート製で、現在では「1970年大阪万博」のみならず「大阪」を代表するシンボルの一つにもなっています。胴体正面中央の『太陽の顔』、頂部の『黄金の顔』、背面の『黒い太陽の顔』の「3つの顔」と、左右に雄大に広げた「腕」をもつ特異な外観から、まさに良い意味での「得体の知れない凄み」や「深遠な面妖さ」を感じさせます。また筆者とその少し上の世代(1950年代後半~1960年代前半を中心とする生まれ)では、その造形(特に『黄金の顔』の造りや夜間に「光る目」)と配色、巨大さから、地球に降り立つ「初代ウルトラマン」を連想させます。
(※1)Maxell(マクセル株式会社)のCMで叫ばれた言葉『芸術は爆発だ!』が、1986年(昭和61年)の流行語大賞を受賞
⇧「EXPO'70パビリオン」(旧:鉄鋼館)
手前に「本館」、奥に覗く白い建物が「別館」、(右)協力団体の一覧(建築、ファッション系のデザインオフィスとともに、関西資本の大手企業の名前も数多く窺えます)
⇧パビリオン「別館」入口と展示物へ導くトンネル通路
⇧パビリオン「別館」展示物の目玉である、巨大な<初代>『黄金の顔』(直径:10.6メートル、目の直径:2メートル、重さ:約12トン)
「1970年大阪万博」開催時に「太陽の塔」頂部に設置されていたもので、スチールに亜鉛メッキを施した鋼板に塩化ビニール製マーキングフィルムが貼られていました。風雨による劣化の危惧から、1992年(平成4年)の「太陽の塔」改修工事の際に取り外され、現在の『顔』はステンレス鋼板に同様のフィルムを貼ったものに交換されています。その後長らく、多数のパーツに分解された状態で保管されていましたが、今回の展示にあたり再度組み立てられ公開に至っています。(「太陽の塔」頂部設置時の『顔』に付属の避雷針は取り外された状態)
⇧「1970年大阪万博」会場の基幹施設「シンボルゾーン」の1/200模型
「お祭り広場」上部の「大屋根」の設計、また「1970年大阪万博」会場の総合プロデューサーを務めたのは、「世界のタンゲ」として知られた建築家・都市計画家の丹下健三氏(大阪府堺市出身)です。同氏は「国立代々木競技場」や「広島平和記念公園」また「東京都庁舎」等、数多の代表作の設計で夙に有名です。
⇧本館2階「スペースシアターホール」内「大屋根(お祭り広場)」模型の全方位アングル
トラス構造のスペースフレーム(グリッド構造)と透明ニューマチック・パネルの天井が印象的な「大屋根」の寸法は、高さ:30メートル、長さ:291メートル、幅:108メートル。その中央の大きな開口部(直径:54メートル)から突き出る形で「太陽の塔」がそびえ立つ構図は、極めて斬新に映ります。
「2025年大阪・関西万博」の「夢洲」会場に建設完成間近の「大屋根リング」は、完成すれば世界最大級の木造建築物となります。この「大屋根リング」について、「大屋根(お祭り広場)」の意匠が受け継がれている様に思われます。(筆者の印象)
⇧「1970年大阪万博」のシンボルマーク、(右下)「2025年大阪・関西万博」公式キャラクターの「ミャクミャク」
同マークは、グラフィックデザイナーで「1970年大阪万博」アートディレクターを務めた大高猛氏が手掛けています。日本の代表的な花「桜」をあしらった図案には、「5枚の花弁」により世界の五大州(五大陸)が表現されています。また「2025年大阪・関西万博」公式ロゴマークおよび公式キャラクター「ミャクミャク」のデザインとも、関連性をもたせる意図が窺えます(「5枚の花弁」と「5つの目(細胞)」)(※2)。ちなみに当社(有田アセットマネジメント)ロゴマークの原案も、当家家紋(丸に梅鉢)に加え「1970年大阪万博」シンボルマークから着想を得ています。
(※2)公式ロゴマーク:TEAM INARI/シマダタモツ氏他による制作、公式キャラクター:グラフィックデザイナーの山下浩平氏によるデザイン
⇧パビリオン「ホステス」を華麗に彩るユニフォーム・コレクション
手前のステージは「日本館」の夏服と合服、デザインを当時担当したのは、コシノジュンコ氏(大阪府岸和田市出身)をはじめ、森英恵氏、芦田淳氏など世界的に有名なトップデザイナーでした。また昭和40年代に入って、大手企業各社が自社イメージアップと宣伝を兼ねて新感覚のユニフォーム制作を競う傾向が顕著となり、髙島屋(外商部門)など代表的百貨店も、パビリオンユニフォームの制作・受注に参画しています。中でも「松下館」でのそれは、きものファッションデザイナーの大塚末子氏によるもので、洋服ユニフォームが大半のパビリオンの中で、「ツーピース形式の着物」という和服ユニフォームが特徴的でした。さらに「お祭り広場」の水上ステージでは、髙島屋による「’70春夏ピエール・カルダン・ファッションショー」が開催され、大きな話題をさらいました。(※3)
(※3)出典:『髙島屋百五十年史』、1982年(昭和57年)、髙島屋百五十年史編纂委員会
(【第8回】へ続く)