【第44回】男爵・若槻元首相(Baron, Former Prime Minister, Wakatsuki)《其ノ四》―裕仁(Hirohito)親王践祚と若槻公/「昭和百年」創始―
※本稿の内容は筆者の個人的見解であり、筆者が所属する組織の公式見解を示すものではありません。
2025年(令和7年)は「昭和百年」。六十年余の長きに亘った「昭和」期は端的に表せば、次の3期に括り得ます。
「前期」(元年~20年):昭和改元と大東亜(対米・対中)戦争開戦から終結に至る、明治憲法下で膨張した帝政期
「中期」(21年~40年):敗戦後の混乱から高度経済成長に至る、(GHQ(※1)による)新憲法下での日米安保体制期
「後期」(41年~64年):変動相場制移行と石油危機、プラザ合意からバブル景気に至る日米経済摩擦期
「令和」の現在、若年層(所謂「平成」世代)から「昭和」に対し、善きにつけ悪しきにつけ取り沙汰される大半は、(上記の)「後期」(もしくは辛うじて「中期」)における時事や世相でありましょう。すなわち昭和「中期」「後期」は、先達と対峙しつつ「現在」から回想しうる、やや遠き「過去」と映ります。
他方、昭和「前期」の20年間はまさに教科書等でしか知り得ない「歴史」であり、国内、対外関係(欧米含む)で政治・経済・軍事の分野に特筆すべき事態がひしめいた、日本史上で最も厳しい時代でありました。筆者母方の遠い姻戚(relative by marriage)にあたる男爵・若槻禮次郎(れいじろう)公 第25代 若槻 禮次郎 | 歴代内閣 | 首相官邸ホームページ 第28代 若槻 禮次郎 | 歴代内閣 | 首相官邸ホームページ は、こうした最も難しい局面に国家指導者として計らずも直面、大正末期から昭和前期に「普通選挙法の成立」「昭和金融恐慌」、「ロンドン海軍軍縮会議」さらに軍部台頭が顕著となった「満州事変」から「大東亜戦争」終結に至る混迷期を主導。内閣総理大臣を2度(第25・28代)務めた後も長らく「重臣會議」の一員として我が国政治に寄与しました。
(※1)GHQ:General Headquarters, the Supreme Commander for the Allied Powers、連合国軍最高司令官総司令部(事実上の米国単独による日本国占領機関)
「重臣會議」は、昭和前期に存在した、天皇に対する後継首相の「奏薦」(そうせん)(※2)や国家の最重要事項に関する意見具申のための機関です。天皇の諮問に応じて「内大臣」(ないだいじん)(※3)により主宰され、首相経験者のうち「前官礼遇者」(功労顕著により、退官後も在官中の待遇を与えられた者)と「枢密院」(すうみついん)(※4)議長および主宰者である「内大臣」により構成されました。「重臣會議」は最後の「元老」である西園寺公望(さいおんじきんもち)公が最晩年に構想し設置を勧告したものであり、「重臣」を構成する首相経験者の召集も公自身により行われています。これは憲法・法律上の規定によらない非公式な機関であり、大東亜戦争後に「内大臣」および「枢密院」が廃止されるまで開催されました。
(※2)奏薦:天皇の「下問」(かもん)に対して後継首相を推薦すること、その後に天皇から後継首相へ組閣の「大命降下」の流れ
(※3)内大臣:天皇を常侍「輔弼」(ほひつ:天皇の大権行使に誤りがない様に助言する行為)して詔勅など宮中内部の文書に関する事務を司った宮内官、初代「内大臣」は三条実美(さねとみ)公
(※4)枢密院:「大日本帝国憲法」第4章(国務大臣及枢密顧問)第56条「天皇ノ諮詢(しじゅん)ニ応ヘ重要ノ国務ヲ審議」の規程に基づく国政及び皇室に関する天皇の最高諮問機関、「勅選」による議長・副議長・顧問官などで構成され初代議長は伊藤博文公
①裕仁親王践祚・昭和改元と第1次若槻内閣
若槻公は、1926年(大正15年)1月に大命降下を受け、与党・憲政会総裁として「第1次若槻内閣」を組閣(第25代内閣総理大臣、内務大臣兼任)。首相在職中の同年12月25日に大正天皇が崩御。青年「摂政」であられた皇太子・裕仁親王(昭和天皇)の践祚(せんそ)(※5)により同日のうちに「昭和」と改元されました。
若槻公は自伝『古風庵回顧録』の第三篇・第十章で、改元(新元号の決定)の経緯について触れています。以下に原文のまま引用します(振り仮名等は筆者)。『昭和という年号は、政府の提案ではあったが、それは宮内省の御用掛が調べたもので、書経(しょきょう)(※6)の「万邦協和(ばんぽうきょうわ)、百姓昭明(ひゃくせいしょうめい)」から取ったものであった。ところがこれに対し、倉富顧問官(勇三郎)(※7)が私案を出し、「上治」としてはどうかと言い出した。それは易経(えききょう)(※8)の中の言葉だという。倉富のいうには、「万邦協和」うんぬんの言葉は、書経中の堯典にある。堯は禅譲の天子で、位を子孫にお譲りにならないで、舜に譲り、舜は禹に譲って、今日でいう共和政治のようなものだ。だから「昭和」はいかん。それよりも「上治」の方がいいというのであった。これは後の話だが、西園寺公がこのことを聞かれて、日本の元号には、今まで書経から出たものが沢山あるじゃないか。それを今になって彼れ是れいうことはない。書経で宜しいと言って笑われた。とにかくこの時の枢密院会議は、倉富の説が出ただけで、誰も異議なく「昭和」に決定した。あとで調べて見ると、中国の五代あたりに、「上治」という年号があったことが判り、それを採らないでよかったということになった。』
(※5)践祚:皇嗣(こうし)が皇位の象徴である「三種の神器」を受け継ぐこと
(※6)書経:古代中国の儒学の経典で「五経」(ごきょう)の一つ
(※7)倉富勇三郎:男爵・法学博士で、枢密院議長・貴族院議員・法制局長官等を歴任
(※8)易経:古代中国の儒学の経典で「五経」(ごきょう)の一つ
またノンフィクション作家で昭和史研究の第一人者・保阪正康氏の著書『昭和天皇(上)』によると、昭和天皇の践祚から改元、「即位の礼」に至る状況が克明に窺えます。1926年(大正15年)12月25日午前1時25分、神奈川県の葉山御用邸にて大正天皇が崩御。その枕元には、皇太子裕仁親王をはじめとする皇族に加え、元老・西園寺公望公、首相・若槻禮次郎公、東宮御学問所総裁・東郷平八郎公(元帥海軍大将)ら要人の姿がありました。裕仁親王は直ちに践祚し第124代天皇となられます。同御用邸にて「剣璽渡御の儀」(けんじとぎょのぎ)の執行、すなわち皇位を示す「三種の神器」の「八咫鏡」(やたのかがみ)「天叢雲剣」(あまのむらくものつるぎ)「八坂瓊曲玉」(やさかにのまがたま)が新天皇へ渡されました。
さらに同日のうちに、(同御用邸)本邸の一室で若槻内閣による臨時閣議および臨時枢密院会議が開かれ上述の新元号「昭和」が決定、以後は「昭和元年」と為されました。新元号の公式発表の折に次の様な詔書が発布されています。『朕皇祖皇宗ノ威霊ニ頼リ、大統ヲ承ケ万機ヲ総フ。茲ニ定制ニ遵ヒ元号ヲ建て、大正十五年十二月二十五日以後ヲ改メテ昭和元年ト為ス』12月28日には、宮中(皇居)の正殿で執り行われた「朝見の儀」(ちょうけんのぎ)で新天皇により勅語が朗読され、若槻首相が臣下の者を代表して奉答文を奏しました。
大正天皇の喪が明けた1928年(昭和3年)11月10日、京都御所の「紫宸殿」(ししんでん)にて「即位の礼」が古式に則り執り行われました。昭和天皇は『永ク世界ノ平和ヲ保チ普ク人類ノ福祉ヲ益サムコトヲ冀フ』との、新時代を担う強い意思を示されました。即位の礼を祝して、ドイツ、英国、中国、シャム(現・タイ)など15か国の外国要人からも、昭和天皇への勲章や奉祝の品々、祝賀メッセージが届けられました。
なお若槻公は、折からの「東京渡辺銀行」取り付け騒ぎや「台湾銀行」不良債権問題など、「昭和金融恐慌」に伴う「経済的混乱」の収拾を図るも、1927年(昭和2年)4月、内閣総辞職に至っています。
⇧「紫宸殿」と南庭
「紫宸殿」は、京都御所において最も格式高い正殿で、1868年(慶応4年)の「五箇条の御誓文」発布の舞台、また「明治」「大正」「昭和」三代天皇の「即位の礼」など重要儀式が執り行われました。回廊に囲まれた広大な南庭(だんてい)は、儀式の場として重要な役割を担いました。
②ロンドン海軍軍縮会議と若槻首席全権
1930年(昭和5年)開催の「ロンドン海軍軍縮会議」(※9)では、若槻公が「首席全権」として国際協調路線の下、交渉に臨んでいます。時の内閣総理大臣(第27代)は、公の東京大学での後輩にあたり、公が与党・立憲民政党(先の憲政会)の総裁に推した濱口雄幸公でした。全権団の顔触れは、若槻公と財部彪(たからべたけし)海軍大臣、松平恒雄全権大使、永井松三ベルギー大使の4名、また随員は総勢5、60名を数え、首席随員に左近司政三中将、他に山本五十六大佐(当時)が加わりました。若槻公は、とりわけ英米二国(大洋国)との対外交渉に苦慮すると同時に、海軍の非難・反対や枢密院の諮詢(しじゅん)など対内的な軋轢も乗り越え、「ロンドン海軍軍縮条約」の批准と調印を果たしました。
この時海軍内部の強硬派は、政府は本来こうした軍部に関する決定は「軍令部」に相談が必要なところ、これを怠り「統帥権(天皇の大権)」を干犯するものだとして非難、反対しました。保阪正康氏の『昭和天皇(上)』によると、1990年(平成2年)に明らかにされた『昭和天皇独白録』において、天皇がこの折の「軍令部」次長・末次信正公の態度に対する不快感を明確にされたとあります。天皇の御本心は、「ロンドン海軍軍縮条約」を締結した政府に賛成であり「軍令部」の動きには反対であらせられました。
(※9)ロンドン海軍軍縮会議:補助艦(巡洋艦、駆逐艦、潜水艦)の保有量制限を主目的とした国際会議、第一次世界大戦後の五大海軍国(英国・米国・日本・フランス・イタリア)が参加
③満州事変と第2次若槻内閣
濱口公が東京駅で凶弾を受け、それに伴う病状悪化に従い当人の依願を引き受ける形で、若槻公は1931年(昭和6年)4月に大命降下を受け、立憲民政党総裁として「第2次若槻内閣」(第28代内閣総理大臣、拓務大臣兼任)を組閣(同年に男爵を受爵)。この折は、同年9月に起きた「柳条湖(りゅうじょうこ)事件」に端を発する「満州事変」(※10)の発生など、極めて困難な局面が続きます。この一連の「政治的混乱」下で若槻公は事態を憂慮、「元老」の西園寺公や、山本権兵衛公、清浦奎吾公、高橋是清公、犬養毅公といった(事変前後の)首相経験者、また貴族院議長の徳川家達公に真相を説明。事件の「不拡大方針」(※11)を定めるも、閣内や軍部、また世論の支持を得られずに、同年12月、内閣総辞職となりました。なお、1920年代から1930年代にかけての戦間期、男爵・外務大臣の幣原喜重郎公(※12)は、英米や中華民国との国際協調を重視した「幣原外交」を展開しています。
保阪正康氏の『昭和天皇(上)』によると、若槻首相は9月19日午前中に参内し、天皇に対し『この事件は拡大の方向にはなく、政府としても不拡大の方針を堅持したい』との内容を上奏しています。天皇は若槻公のこの報告に全面的に同意し、喜びの表情を浮かべられたと伝わっています。ところが事変発生から3日目には、関東軍の拡大の意向と統帥を犯す朝鮮軍の行動、さらに国際社会での孤立(後の国際連盟からの脱退)といった状況が明らかになりました。天皇は陸軍のこうした行動に強い不快感を示され、陸軍大臣の南次郎公へ『すべての非が相手にあるというのでは円満な解決はできない。軍紀もまた厳重に守らなければならない。明治天皇が創設された軍隊にまちがいがあっては、自分としては申しわけがない』との御注意を与えられています。
若槻公は、その後も長らく首相経験者の立場で「重臣」として政治に参画し(重臣會議)、大東亜戦争開戦時の御前会議や戦争段階での華族会館における東條英機首相との論戦、また終戦時における同内閣の倒閣に重要な役割を果たしています。若槻公は、1945年(昭和20年)の鈴木貫太郎内閣の「奏薦」や「ポツダム宣言」受諾などにも大きく関与しています。その鈴木内閣は、本土決戦かポツダム宣言受諾かで二分する御前会議を、天皇自らの聖断を仰いで本土決戦を回避、終戦へ導きました。若槻公は1949年(昭和24年)11月、静岡県伊東市で逝去。正二位勲一等旭日桐花大綬章。
(※10)満州事変:1931年(昭和6年)9月、中華民国の奉天(ほうてん)郊外、柳条湖における南満州鉄道の線路爆破事件に対して、関東軍高級参謀の石原莞爾(かんじ)公が中心になって計画し、中華民国軍の行為であると主張して独断で開始した軍事・占領行動と武力紛争
(※11)不拡大方針:「満州事変」に際して第2次若槻内閣が表明した、事態の不拡大と関東軍の兵力増派を拒否する方針
(※12)幣原喜重郎公:男爵、第1次・第2次若槻内閣等における外務大臣で、大東亜戦争終了から間もない混乱期に内閣総理大臣(第44代)に就任、堺県茨田郡(現:大阪府門真市)出身
⇧<参考>『古風庵回顧録』、1950年(昭和25年)、若槻禮次郎(自伝)、読売新聞社
⇧<参考>前田秀實氏(写真左、筆者の母方先祖の官吏、士族、正六位、「樺太廳」第三部長)と、同氏の追悼録『秀峰』に寄せられた若槻公の追悼文(写真右)
1905年(明治38年) 日露戦争後のポーツマス条約締結により、南樺太がロシアから日本に割譲され、1907年(明治40年)に行政機関として「樺太廳」(からふとちょう)が発足、拓務(たくむ)大臣の指揮監督下に置かれました。
※参考文献
『古風庵回顧録』、1950年(昭和25年)、若槻禮次郎(自伝)、読売新聞社
『昭和天皇(上下)』、2019年(令和元年)、保阪正康、朝日新聞出版