【第1回】男爵・若槻元首相(Baron, Former Prime Minister, Wakatsuki)《其ノ一》―染井霊園墓所参拝/戦前激動期における若槻公の功績―

※本稿の内容は筆者の個人的見解であり、筆者が所属する組織の公式見解を示すものではありません。
一昨日、初夏を思わせる陽気の下、東京は駒込の染井霊園を訪れ、筆者の母方の遠い姻戚(relative by marriage)にあたる、男爵・内閣総理大臣(第25・28代) 若槻禮次郎(れいじろう)公 第25代 若槻 禮次郎 | 歴代内閣 | 首相官邸ホームページ 第28代 若槻 禮次郎 | 歴代内閣 | 首相官邸ホームページ の墓前に御花と御線香を供えました。公は1866年(慶応2年)、幕末の松江藩(藩主は雲州松平家(※1))に下級武士、奥村仙三郎氏の次男として生を受けました。その後、上京し、叔父にあたる若槻敬氏の養子となって若槻姓を名乗り、1892年(明治25年)、帝国大学法科(現:東京大学法学部)を首席で卒業したのちに大蔵省へ入省。1906年(明治39年)1月、第1次西園寺公望内閣時に大蔵次官に任ぜられ、1908年(明治41年)7月、第2次桂太郎内閣時に大蔵次官に再任されています。政治家に転じたのちは、1911年(明治44年)8月、貴族院勅選議員となり、1912年(大正元年)、第3次桂太郎内閣で大蔵大臣を、1914年(大正3年)、第2次大隈重信内閣で大蔵大臣を再び務めました。
1916年(大正5年)、加藤高明公らの憲政会結成に参加して副総裁となり、1924年(大正13年)、同内閣で内務大臣に就任しました。この加藤内閣において若槻公は、憲政会の選挙公約であった「普通選挙法」について、紆余曲折の末に枢密院と貴族院へ法案を通し成立させています。加藤公が首相在職中のまま病死した後を受けて、1926年(大正15年)1月、大命降下、若槻公は与党・憲政会総裁として「第1次若槻内閣」を組閣(第25代内閣総理大臣、内務大臣兼任)。首相在職中の同年12月25日に大正天皇が崩御、皇太子裕仁親王(昭和天皇)の践祚(せんそ)によりその日のうちに「昭和」と改元。公は折からの「東京渡辺銀行」取り付け騒ぎや「台湾銀行」不良債権問題など、「昭和金融恐慌」に伴う「経済的混乱」の収拾を図るも、翌1927年(昭和2年)4月、内閣総辞職に至りました。
1930年(昭和5年)開催の「ロンドン海軍軍縮会議」(※2)では、若槻公が「首席全権」として国際協調路線の下、交渉に臨んでいます。時の内閣総理大臣(第27代)は、公の東京大学での後輩にあたり、公が与党・立憲民政党(先の憲政会)の総裁に推した濱口雄幸公でした。全権団の顔触れは、若槻公と財部彪(たからべたけし)海軍大臣、松平恒雄全権大使、永井松三ベルギー大使の4名、また随員は総勢5、60名を数え、首席随員に左近司政三中将、他に山本五十六大佐(当時)が加わりました。若槻公は、とりわけ英米二国(大洋国)との対外交渉に苦慮すると同時に、海軍の非難・反対や枢密院の諮詢(しじゅん)など対内的な軋轢も乗り越え、「ロンドン海軍軍縮条約」の批准と調印を果たしました。
この時海軍内部の強硬派は、政府は本来こうした軍部に関する決定は「軍令部」に相談が必要なところ、これを怠り「統帥権(天皇の大権)」を干犯するものだとして非難、反対しました。ノンフィクション作家で昭和史研究の第一人者・保阪正康氏の著書『昭和天皇(上)』によると、1990年(平成2年)に明らかにされた『昭和天皇独白録』において、天皇がこの折の「軍令部」次長・末次信正公の態度に対する不快感を明確にされたとあります。天皇の御本心は、「ロンドン海軍軍縮条約」を締結した政府に賛成であり「軍令部」の動きには反対であらせられました。
濱口公が東京駅で凶弾を受け、それに伴う病状悪化に従い当人の依願を引き受ける形で、若槻公は1931年(昭和6年)4月に大命降下を受け、立憲民政党総裁として「第2次若槻内閣」(第28代内閣総理大臣、拓務大臣兼任)を組閣(同年に男爵を受爵)。この折は、同年9月に起きた「柳条湖(りゅうじょうこ)事件」に端を発する「満州事変」(※3)の発生など、極めて困難な局面が続きます。この一連の「政治的混乱」下で若槻公は事態を憂慮、「元老」の西園寺公や、山本権兵衛公、清浦奎吾公、高橋是清公、犬養毅公といった(事変前後の)首相経験者、また貴族院議長の徳川家達公に真相を説明。事件の「不拡大方針」(※4)を定めるも、閣内や軍部、また世論の支持を得られずに、同年12月、内閣総辞職となりました。なお、1920年代から1930年代にかけての戦間期、男爵・外務大臣の幣原喜重郎公(※5)は、英米や中華民国との国際協調を重視した「幣原外交」を展開しています。
保阪正康氏の『昭和天皇(上)』によると、若槻首相は9月19日午前中に参内し、天皇に対し『この事件は拡大の方向にはなく、政府としても不拡大の方針を堅持したい』との内容を上奏しています。天皇は若槻公のこの報告に全面的に同意し、喜びの表情を浮かべられたと伝わっています。ところが事変発生から3日目には、関東軍の拡大の意向と統帥を犯す朝鮮軍の行動、さらに国際社会での孤立(後の国際連盟からの脱退)といった状況が明らかになりました。天皇は陸軍のこうした行動に強い不快感を示され、陸軍大臣の南次郎公へ『すべての非が相手にあるというのでは円満な解決はできない。軍紀もまた厳重に守らなければならない。明治天皇が創設された軍隊にまちがいがあっては、自分としては申しわけがない』との御注意を与えられています。
若槻公は、その後も長らく首相経験者の立場で「重臣」として政治に参画し(重臣會議)、大東亜戦争開戦時の御前会議や戦争段階での華族会館における東條英機首相との論戦、また終戦時における同内閣の倒閣に重要な役割を果たしています。若槻公は、1945年(昭和20年)の鈴木貫太郎内閣の「奏薦」(そうせん)(※6)や「ポツダム宣言」受諾などにも大きく関与しています。その鈴木内閣は、本土決戦かポツダム宣言受諾かで二分する御前会議を、天皇自らの聖断を仰いで本土決戦を回避、終戦へ導きました。若槻公は1949年(昭和24年)11月、静岡県伊東市で逝去。正二位勲一等旭日桐花大綬章。
「重臣會議」は昭和初期に存在した、天皇に対する後継首相の「奏薦」や国家の最重要事項に関する意見具申のための機関です。天皇の諮問に応じて「内大臣」(ないだいじん)(※7)により主宰され、首相経験者のうち「前官礼遇者」(功労顕著により、退官後も在官中の待遇を与えられた者)と「枢密院」(すうみついん)(※8)議長および主宰者である「内大臣」により構成されました。「重臣會議」は最後の「元老」である西園寺公自身が最晩年に構想し設置を勧告したものであり、「重臣」を構成する首相経験者の召集も公自身により行われています。これは憲法・法律上の規定によらない非公式な機関であり、大東亜戦争後に「内大臣」および「枢密院」が廃止されるまで開催されました。
今回、染井霊園において若槻男爵家の家紋や霊標の様子をつぶさに拝観し、また昭和初期の政界で常に若槻公の近くにあり、公が「畏友」と称した幣原男爵家の墓所も訪ねることができ、宿願を果たせました。同園はソメイヨシノ(桜)の名所で知られており、満開を迎える時候に再び訪れたいと思います。
(※1)雲州松平家:越前松平家の分家で石高は18万6千石 <参考>越前松平家は、徳川家康公の次男、結城秀康公(豊臣秀吉公の養子)を祖とする御家門筆頭の親藩
(※2)ロンドン海軍軍縮会議:補助艦(巡洋艦、駆逐艦、潜水艦)の保有量制限を主目的とした国際会議、第一次世界大戦後の五大海軍国(英国・米国・日本・フランス・イタリア)が参加
(※3)満州事変:1931年(昭和6年)9月、中華民国の奉天(ほうてん)郊外、柳条湖における南満州鉄道の線路爆破事件に対して、関東軍高級参謀の石原莞爾(かんじ)公が中心になって計画し、中華民国軍の行為であると主張して独断で開始した軍事・占領行動と武力紛争
(※4)不拡大方針:「満州事変」に際して第2次若槻内閣が表明した、事態の不拡大と関東軍の兵力増派を拒否する方針
(※5)幣原喜重郎公:男爵、第1次・第2次若槻内閣等における外務大臣で、大東亜戦争終了から間もない混乱期に内閣総理大臣(第44代)に就任、堺県茨田郡(現:大阪府門真市)出身
(※6)奏薦:天皇の「下問」(かもん)に対して後継首相を推薦すること、その後に天皇から後継首相へ組閣の「大命降下」の流れ
(※7)内大臣:天皇を常侍「輔弼(ほひつ)」(天皇の大権行使に対し助言・進言すること)して詔勅など宮中内部の文書に関する事務を司った宮内官。初代「内大臣」は三条実美(さねとみ)公
(※8)枢密院:「大日本帝国憲法」第4章(国務大臣及枢密顧問)第56条「天皇ノ諮詢(しじゅん)ニ応ヘ重要ノ国務ヲ審議」の規程に基づく国政及び皇室に関する天皇の最高諮問機関、「勅選」による議長・副議長・顧問官などで構成され初代議長は伊藤博文公

⇧墓前の様子、竿石の裏面に建立者名(男爵 若槻禮次郎)を確認

⇧若槻男爵家墓所に設置された標識

⇧幣原男爵家の墓所

⇧<参考>『古風庵回顧録』、1950年(昭和25年)、若槻禮次郎(自伝)、読売新聞社

⇧<参考>前田秀實氏(写真左、筆者の母方先祖の官吏、士族、正六位、「樺太廳」第三部長)と、同氏の追悼録『秀峰』に寄せられた若槻公の追悼文(写真右)
1905年(明治38年) 日露戦争後のポーツマス条約締結により、南樺太がロシアから日本に割譲され、1907年(明治40年)に行政機関として「樺太廳」(からふとちょう)が発足、拓務(たくむ)大臣の指揮監督下に置かれました。
※参考文献
『古風庵回顧録』、1950年(昭和25年)、若槻禮次郎(自伝)、読売新聞社
『昭和天皇(上下)』、2019年(令和元年)、保阪正康、朝日新聞出版