【第82回】伝統的価値観(Traditional Values)《其ノ六》民主政(Democratic)の愚《前篇》―多党化の進行と安倍外交の遺産(Legacy)―
※本稿内容は筆者の個人的見解であり、筆者所属組織(現在および過去)の公式見解を示すものではありません。
①「多党化」の進行と「議会制民主政治」「政党政治」の機能不全
2025年(令和7年)秋(10月4日投開票)、昨年9月からわずか1年という間隔で自由民主党総裁選が実施された。現下は、引き続き大きな難局が続くであろう対米(Donald Trump 政権)・対中・対露などの外交交渉の成り行きを見据える必要がある。これに対して、前内閣および現内閣の官房長官を務め閣僚経験も豊富、「仁の政治」を掲げ政権運営に関する調整能力の高い、林芳正氏以外にこれに対峙しうる政治家はありえないと、筆者は昨年・本年の両選挙において考えた。同氏以外にホワイトハウスで Trump 氏と四つに組んだ構図は想像できない。とりわけ今は現内閣(石破茂首相・赤沢亮正経済再生担当相など)がこの1年間に成し得た(対米)関税交渉実績と方針の継続性に重点が置かれるべきであり、毎年転変する日本の首相の言などに米国をはじめ各国いずれも本気で取り合わないであろう。そもそも功労者である石破政権を退陣に追い込んだ国政の流れ(仕組み)自体に得心がいかない。
肝要なのは、国内(与野党間・与党内)の政権抗争や各論政策の議論に躍起になることでない。国の外に目を向け国家の大局・大事に中りうる長期安定政権の構築が強く望まれる。労多き「多数決原理」(Majority Rule)により、「議会制民主政治」(Parliamentary Democracy)「政党政治」(Party Politics)がこれに機能していないのは明らかである。安倍晋三・長期安定政権が幕を降ろして以降、令和の連立政権は少数与党(自民党)で派閥が消滅(表面上の弱体化)する一方(野党の)多党化が進み、混迷と不安定さを増している。連立の枠組で今後に控える首相指名選挙の行方も甚だ覚束ない。一方、安倍政権以降の日本の国際政治や経済・金融動向(株高・円安基調)は、安倍氏が長い期間をかけて推し進めた多国間安全保障戦略や対米外交(Trump 氏との個人的信頼関係の構築)、また包括的経済政策(所謂「アベノミクス」)の遺産に依拠しているのは事実である。
【後日追記】首相指名選挙を経て10月22日に鳴り物入りで発足した自民・維新連立内閣。発足直後に迎えた日米首脳会談で「Trump 氏の盟友・安倍元首相の継承者」とメディアが過熱気味に報道し、その一点をもって米国指導者「個人」に殊更不自然に阿る(おもねる)姿に、日本人の一人として筆者は不愉快さを禁じ得ない。その後も期待先行による全面的な肯定評価の論調に対して違和感が残る。しかし同内閣が、政権基盤の脆弱さからまたもや短命で潰える虞は十分にある。その後を睨んで筆者は、前述の熟練した政権運営手腕の期待できる林芳正氏の登板以外に、現在日本が向き合う難局を乗り切る術はない様に考える。以下は、21世紀(2001年~)以降の25年間に在職した首相と在職日数、政権与党の一覧である(首相官邸ウェブサイトを基に筆者作成)。 歴代内閣 | 首相官邸ホームページ 内閣制度と歴代内閣

以下は、戦前すなわち大東亜戦争(対米戦争)前の昭和混乱期に在職した首相の一覧である(首相官邸ウェブサイトを基に筆者作成)。 歴代内閣 | 首相官邸ホームページ 内閣制度と歴代内閣 当該20年間に目まぐるしく首相が交代し、挙国一致内閣が続いた様は、令和の連立政権の状況と重なる。

②安倍外交の遺産(幕末・明治期よりの海洋国家構想)
Donald Trump 米国大統領による2024年の再選同様、安倍晋三元首相は第一次政権における辞任の後、2012年に総理大臣への「返り咲き」を果たした。のみならず歴代最長となる第二次安定政権を築き上げた。シドニー大学 アメリカ研究所長の Michael J. Green 氏は、その著書『安倍晋三と日本の大戦略 21世紀の「利益線」構想 Line of Advantage』序文で、同元首相による「自由で開かれたインド太平洋」構想は『幕末・明治時代に坂本龍馬や勝海舟が、そして戦後に高坂正堯などの学者たちが提示した海洋国家としての日本というコンセプトを基盤として築かれたものだ。』、また『安倍のグランド・ストラテジーは軍国主義への回帰を表すものではなく、むしろ明治時代のリーダーたちが謳っていた世界主義の海洋国家としてのビジョン―アジア大陸を征服することで日本の安全保障が堅牢になると考えた愚かな軍国主義者や国粋主義者によってかき消されてしまった―の実現である』と述べている。
この「利益線」(Line of Advantage)構想に関して、安倍晋三元首相と同郷の長州人で、第3代から2度首相を務めた公爵・山縣有朋公が、「主権線」「利益線」という用語を用いて、当時の大日本帝国における国防の概念を提起している。1890年(明治23年)の第1回帝国議会における施政方針演説が、「衆議院第一回通常会議事速記録」(12月7日付)に次の通り収録されている。『蓋国家独立自営の道に二途あり、第一に主権線を守護すること、第二には利益線を保護することである、其の主権線とは国の疆域を謂ひ、利益線とは其の主権線の安危に、密着の関係ある区域を申したのである』(現代語訳:そもそも国家の独立自立の道には二通りあり、第一には「主権線」を守ること、第二には「利益線」を保護することである。この「主権線」とは国の境目を言い、「利益線」とはこの主権線の安全に密接な関係がある地域を申し上げたのである)
また『凡国として主権線、及利益線を保たぬ国は御座いませぬ、方今列国の間に介立して一国の独立をなさんんとするには、固より一朝一夕の話のみで之をなし得べきことで御座りませぬ、必ずや寸を積み尺を累ねて、漸次に国力を養ひ其の成蹟を観ることを力めなければならぬことと存じます』(現代語訳:おおよそ国というもので主権線、利益線を保全しないものはありません。古今東西の各国に囲まれた一つの国が独立しようとするなら、当然ながら一朝一夕の話のみでなし得ることではありません。どうしても小さな努力を積み重ね、徐々に国力を養ってその成果を観察するように注意しなければならないと考えます)
公は「利益線」について、国境である「主権線」の外縁部にあたる(近接する)地域をも、国家の利益と関係する境界線すなわち「勢力圏」と位置づけた。換言すると、国家の防衛には「主権線」の安全だけでなく「利益線」の安全も必要とするものであった。こうした概念を源泉として安倍元首相は、島国(海洋国)である日本にとって「海」(インド太平洋)の重要性を強く認識し、競合国に対して「海」を緩衝地帯とした、「地政学」上の優位性を保つ枠組み(多国間による安全保障)を日本発で提唱し、米国やオーストラリア等、他の海洋諸国の賛同を得るに至った。
上記に関連して Michael J. Green 氏はまた、著書『アメリカのアジア戦略史(上・下) By More Than Providence』(同書で Providence は「恩寵」すなわち「神の恵み」の意味で用いられている)の序文で、徳川時代の幕末において我が国開国の端緒となった、黒船の来航で知られる Matthew C. Perry 提督について次の様に述べている。『Perry 提督は、1850年代の日本遠征から帰国した頃に、自らの講演のなかで、将来太平洋は、日本、アメリカ、イギリスの三国によってその安全が守られねばならないと論じた。それは、現在の日米豪印による、いわゆる「クアッド」の淵源ともいえるだろう。』
Michael J. Green 氏はさらに朝鮮半島の重要性について、『山県有朋の表現を借りるならば、朝鮮半島は日本の心臓を突き刺そうとする「戦略的な短剣」であった。』と述べている。明治期の元老・山縣有朋公は、同じ長州出身で初代から4度首相を務めた公爵・伊藤博文公より3歳年長で、盟友・好敵手であった伊藤公の2代後に首相を務めた。2022年(令和4年)7月、奈良市の近鉄大和西大寺駅北口で参議院選挙の応援演説中に凶弾に倒れた平成の宰相・安倍氏の国葬で、同氏の下で官房長官を務めた菅義偉氏(元首相)が追悼の辞を述べた。その結びで菅氏は、安倍氏が生前に書見の岡義武氏著『山県有朋―明治日本の象徴―』にある歌(一首)を紹介している。それは山縣公が、満州の哈爾浜(Harbin)駅で凶弾に倒れた伊藤公を偲んで詠んだ歌であった。『かたりあひて 尽くしゝ人は 先立ちぬ 今より後の世をいかにせむ』
③Alexis de Tocqueville と民主主義随感
翻って同書では、僅少ながら民主主義体制の限界についても触れられている。すなわちその序論で、フランス人貴族の政治思想家 Alexis de Tocqueville の著書『De la démocratie en Amérique(アメリカの民主政治)』における一節が紹介されている。『(ところが)大事業の細部を調整し、計画を見失わず、障害を押して断乎としてその実現を図るということになると、民主政治はこれを容易にはなしえまい。秘密の措置を案出し、その結果を忍耐強く待つことは民主主義にはなかなかできない。』
これは、民主主義体制の弱点として指摘された「社会の対外(外交)的利害の処理」に言及するものであり、Tocqueville の著書『アメリカの民主政治』ではその前段で次の様に述べられている。『外交政策には民主政治に固有の資質はほとんど何一つ必要でなく、逆にそれに欠けている資質はほとんどすべて育てることを要求される。民主政治は国家の内部の力を増すには好都合である。それは生活のゆとりを拡げ、公共心を育み、社会のさまざまな階級の遵法精神を強める。だがこれらのことはすべて、一国民の他国民に対する立場には間接的な影響しかもたらさない。』また後段には次の様に述べられている。『これらはある種の個人や貴族がとくに有する資質である。まさにこれらの資質こそ、個人の場合と同様、一国の人民をもいつかは支配者の地位に就けさせる資質なのである。逆に、貴族制に生来の欠点を注意してみると、それらの欠点から生じうる帰結は国家の対外問題の指導にはほとんどなんら目立った障害でないことに気づくであろう。貴族が非難される根本的な欠陥は、大衆のためではなく自分のためにしか働かぬという点である。しかし、外交政策では、貴族が人民と別の利害を持つことはきわめて稀である。』
※参考文献
Michael J. Green、上原裕美子(訳)『安倍晋三と日本の大戦略 21世紀の「利益線」構想 Line of Advantage』、日本経済新聞出版、2023年
Michael J. Green、細谷雄一・森聡(訳)『アメリカのアジア戦略史(上・下) By More Than Providence』、勁草書房、2024年
会田弘継『それでもなぜ、トランプは支持されるのか:アメリカ地殻変動の思想史』、東洋経済新報社、2024年
独立行政法人国立公文書館 アジア歴史資料センター 政治・外交(解説を読む) 日露戦争勃発 | 日露戦争特別展2
船橋洋一『自由主義の危機:国際秩序と日本』、東洋経済新報社、2020年
Alexis de Tocqueville、岩永健吉郎(訳)『アメリカにおけるデモクラシーについて』(原題 仏:De la démocratie en Amérique)、中公クラシックス、2015年






