【第69回】南蛮貿易都市「堺」(Sakai)《其ノ二》―自由自治都市・堺の環濠と四人の天下人《後篇》[出世人]豊臣秀吉公と[苦労人]徳川家康公―

⇧「さかい利晶の杜」(さかいりしょうのもり) さかい利晶の杜 内、ポルトガルの地図製作者 Luís Teixeira による古地図(1595年)、中央に窺える「Sacay」(堺)の地名表記、「さかい利晶の杜」は大阪府堺市堺区宿院町西に所在の堺歴史文化観光施設、(写真左上)三葉葵紋は東京都港区の「台徳院霊廟惣門」のもの
※本稿の内容は筆者の個人的見解であり、筆者が所属する組織の公式見解を示すものではありません。
(執筆中)
「環濠都市」として知られる「堺」(さかい)は、中世日本における「自由・自治都市」として南蛮貿易と海上交通の重要拠点であった。1543年(天文12年)大隅国(現・鹿児島県)の種子島に伝来した鉄砲(火縄銃)の生産で名を馳せた。堺のもつ経済力と文化的繁栄に有力な戦国大名たちはこぞって注目した。「南蛮」は、16世紀半ば以降の日本ではポルトガル人やイスパニア人(スペイン人)を指した呼称である。そして堺を掌握した三好長慶公・織田信長公・豊臣秀吉公に続き、最後に徳川家康公が天下を制した。本稿では現在の堺市内に残る史跡を通して、四人の天下人と堺の関わりを取り上げる。後篇は豊臣秀吉公と徳川家康公である。

⇧堺市中心市街地を東西に横断する大街路「フェニックス通り」に面する「さかい利晶の杜」と「宿院」交差点
①出世人・豊臣秀吉公
尾張の戦国武将で織田信長公に仕えた後に破竹の勢いで出世を重ね、明智光秀公を破り天下統一を果たした豊臣秀吉公。公は1586年(天正14年)、堺のまちの周囲に巡らされていた「環濠」を埋め立てさせた。そして家臣の石田光成公を堺政所(奉行)にあたらせた。秀吉公は茶の湯を好み千利休を茶頭として重用したが、後に関係が悪化し切腹させるに至った。
自治運営の象徴である環濠すら奪われた堺は秀吉公の没後、1615年(慶長20年)「大坂夏の陣」の兵火で大半を焼失した。堺区少林寺町東3丁付近の発掘調査では、深さ4.5m、幅17mの巨大な堀があったことが確認されている。

⇧「さかい利晶の杜」特別展示(期間限定)の豊臣秀吉公「黄金の茶室」(復元)※2025年(令和7年)5月3日撮影

⇧南宗寺の南側に現在も残る堺の環濠(土居川)
「さかい利晶の杜」内、「泉州堺絵図」(1863年/文久3年)によれば、南宗寺は当時の「環濠都市」堺の南東部に所在(朱色部)することが窺える。
②苦労人・徳川家康公

⇧南宗寺「坐雲亭」に掲示の御触書
徳川家康公は三河の戦国武将で、織田信長公と同盟し豊臣秀吉公に臣従の末、1600年(慶長5年)「関ヶ原の戦」を制した。1603年(慶長8年)江戸に幕府を開き「大坂夏の陣」に勝利の後、堺を即座に復興(徳川幕府による)して長期政権の礎とした。現在も残る碁盤目状の街路や新たな堀を設け、これを「元和の町割り」という。新しくできた町割りには細かく町名が付けられ、通称を含めた町の数は400近くに及んだ。これに因み堺市では現在でも住所表記に、1つの「町」を細分化する意味を持つ「丁目」ではなく、「町」と同格の意味である「丁」を用いている。 なぜ、堺市では美原区域以外は「丁目」じゃなくて「丁」なの? 堺市
一方で公は「大坂夏の陣」で後藤又兵衛公の槍を受け、三好長慶公が建立した南宗寺へ落ち延び絶命したとの伝承がある。家康公は彼の地に埋葬され、極めて簡素ではあるが墓石も確認できる。こちらの墓石とは別に、「東照宮 徳川家康墓」と碑銘が刻まれた立派な墓石も建立されている(ともに撮影不可、警備体制も厳重)。こちらは水戸徳川家・家老の末裔で剣術家の三木啓次郎氏が設立発起人となったもの。墓石裏側には、賛同者の一人に松下電器産業株式会社(現・パナソニックホールディングス株式会社)創業者の松下幸之助氏の名前も記されている。
天下取りに向け、苦労と忍従を重ねた同公の人生において、堺のまちとの生死に関わる接点が2度あった。1度目は織田信長公が襲撃された「本能寺の変」の際、見物滞在中の堺から「神君伊賀越え」を余儀なくされ本拠地の三河国へ辛くも生還の折。2度目は上述の折である。「艱難汝を玉にす」は、筆者母方祖母も往々にして筆者に諭した言葉である。武家の中で筆者の最も畏敬する同公と、地元・堺との奇縁を強く感じる所以である。
※参考文献
春季堺文化財特別公開「堺と四人の天下人」 パンフレット0204