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【第10回】男爵・若槻元首相(Baron, Former Prime Minister of Japan, Wakatsuki)挿話《其ノ二》―勲功華族の功績―

※本稿の内容は筆者の個人的見解であり、筆者が所属する組織の公式見解を示すものではありません。

⇧写真は、「京都御苑」内に2022年(令和4年)5月に開所したばかりの茶房SASAYAIORI+ 京都御苑」(近衞邸跡休憩所)における、ガラス壁装飾(江戸時代の禁裏御所と公家邸宅の様子)

京都市は上京区「京都御苑」内の「京都御所」(Kyoto Imperial Palace)を十数年ぶりに訪れ、禁裏(きんり:天皇の在所)御所が2016年(平成28年)7月より通年で一般公開され、御苑内も茶寮(さりょう)や休憩所等を含め大幅整備が施されていることに驚き、隔世の感を覚えました。江戸時代までは御苑内に、禁裏御所を取り囲む様に由緒ある公家邸宅が建ち並んでいましたが、明治維新を機に明治天皇や皇族とともに東京へ移住、約100万平米におよぶ広大な敷地は現在、緑豊かな公園として国内・海外からの観光客に開かれています。(筆者の訪れた日も、観光客の大半が訪日外国人)

筆者の母方の遠い姻戚(relative by marriage)にあたる男爵・若槻禮次郎(れいじろう)公は、1906年(明治39年)1月、第1次西園寺公望内閣時に大蔵次官に任ぜられたのち政界に転じました。公は大正末期から昭和初期の政治的・経済的に混迷を極めた時代に内閣総理大臣を2度(第25・28代)務め、その後も長らく「重臣會議」の一員として我が国政治に国際協調・和平派の立場で寄与しました。公は1930年(昭和5年)開催の「ロンドン海軍軍縮会議」の功により男爵を受爵した「勲功華族」でありましたが、これは「公家華族」、「武家華族」などとともに、我が国で明治初頭に制定された「華族」制度(Aristocracy)を構成するものでした。その根幹は、1885年(明治18年)に初代内閣総理大臣に就いた伊藤博文公を中心に形成されています。

1869年(明治2年)の「版籍奉還」と同時に、「公卿」(公家)と「諸侯」(大名)の称が廃され、「華族」(Aristocrat)と改められました。これとともに「武士」階級を「士族」(Descendant of Samuraiと呼ぶことが定められ、特権はもたないものの戸籍上の族称記載がなされました。「華族」は「皇室の藩屏(はんぺい)」と呼ばれ、有爵者は貴族院の有爵議員(華族議員)に選出されうる特権を有しました。またこれに続く1884年(明治17年)に公布された「華族令」により、「公爵」「侯爵」「伯爵」「子爵」「男爵」の五爵制が定められ、「叙爵内規」による基準は以下内容でありました。

このうち、公家や大名など前時代の上層(支配)階級出身でなく、維新期やそれ以降の時期に「国家に偉功や勲功のあった」(国家や君主に尽くした)政治家、官僚、軍人、実業家(財閥系)などは、「勲功華族」(「新華族」とも)として爵位を授かりました。1869年(明治2年)の「華族令」創設から1947年(昭和22年)に廃止されるまでの「華族」の総数、千余家のうち、「勲功華族」の割合はほぼ2割であり、主な叙爵者として以下が挙げられます。(選考基準はあくまで筆者の主観であり、知名度や叙爵者自身による勲功を基準として、父祖の勲功による叙爵は除いています/敬称略・爵位別の五十音順)

こうしてみると、真の意味で「身を挺して」維新の功績を上げ、次代(明治、大正から昭和初期)の国家や社会制度を構築する原動力となりえたのは、主に西国雄藩の藩士など下層階級の出身者が占めています。その意味で、特権階級の「華族」全体中、約2割と少数派であった「勲功華族」の果たした役割は、その数字以上に計り知れないものといえましょう。歴史を俯瞰すると、公家政権から平氏・鎌倉武家政権への移行、戦国期の混乱から織豊・徳川政権の成立、明治維新と近代立憲君主制(大日本帝國)への移行など、時代の大きな転換期には、「前時代の下層階級」から傑出した人物や勢力が台頭し、次代の国家や社会制度を「新たに創造する」役割を果たしていることが窺えます。

なお、1874年(明治7年)には華族の団結と交友を目的とする親睦団体として「華族会館」が創立され、初代館長には皇族で軍人の有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみや たるひとしんのう)が、次代には岩倉具視公が就いています。1890年(明治23年)からは、「欧化政策」の場として知られた「鹿鳴館」を華族会館が使用していました。また華族子弟の教育機関として構想された「学習院」は、「華族会館」が母体となり設立されました。「華族」制度廃止ののちも、「華族会館」は「霞会館」と名称を変更しつつ現在まで存続し、旧華族の親睦の中心となっています。「霞会館」の名称の由来は、所在地の地名が「霞が関」であることのほか、初代館長の有栖川宮熾仁親王雅号「霞堂」によるものとされています。

⇧「一般社団法人 霞会館 京都支所」

京都支所は京都御所から西方面、ほど近くに居を構えています。

⇧「一般社団法人 霞会館」

定款上の「主たる事務所」は東京都千代田区の「霞が関ビルディング」内(34階)。

⇧「建礼門」(けんれいもん)

建礼門は禁裏御所の南面正門で、天皇・皇后と外国元首など国賓のみが通ることのできる、最も格式の高い門とされています。

⇧「清所門」(せいしょもん)、禁裏御所への入場門、皇居警察本部・京都護衛署の警察官多数が警備

⇧「紫宸殿」(ししんでん)

最も格式高い正殿で、1868年(慶応4年)の「五箇条の御誓文」発布の舞台、また「明治」「大正」「昭和」三代天皇の「即位の礼」など重要儀式が執り行われました。回廊に囲まれた広大な南庭(だんてい)は、儀式の場として重要な役割を担いました。

⇧「小御所」(こごしょ)

江戸時代に将軍や大名など武家との対面や儀式の場として使用、また1867年(慶応3年)に「小御所会議」が開かれ、「大政奉還」を行った15代将軍・徳川慶喜公の「辞官」(内大臣の辞職)および「納地」(徳川宗家領の奉納)が決定されました。

⇧「京都御苑情報館」内の「京都御苑」全体を再現したジオラマ、左手奥が「京都御所」(禁裏御所)

⇧「有栖川宮旧邸」(現:平安女学院大学 有栖館)

(写真上)禁裏御所「建礼門」前に建てられていた「有栖川宮邸」は1891年(明治24年)に現在の「京都御苑」西側の地に移築、(写真下)有栖川宮熾仁親王の銅像(東京都港区の有栖川宮記念公園内)

⇧<参考>『古風庵回顧録』、1950年(昭和25年)、若槻禮次郎(自伝)

⇧<参考>前田秀實氏(写真左、筆者の母方先祖の官吏、士族、正六位、「樺太廳」第三部長)と、同氏の追悼録『秀峰』に寄せられた若槻公の追悼文(写真右)

1905年(明治38年) 日露戦争後のポーツマス条約締結により、南樺太がロシアから日本に割譲され、1907年(明治40年)に行政機関として「樺太廳」(からふとちょう)が発足、拓務(たくむ)大臣の指揮監督下に置かれました。

※参考文献

『古風庵回顧録』、1950年(昭和25年)、若槻禮次郎(自伝)
『「華族」の知られざる明治/大正/昭和史』、2021年(令和3年)、株式会社ダイアプレス

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