【第29回】男爵・若槻元首相(Baron, Former Prime Minister of Japan, Wakatsuki)挿話《其ノ三》―最後の元老・西園寺公《前篇》民主主義随感―
※本稿の内容は筆者の個人的見解であり、筆者が所属する組織の公式見解を示すものではありません。
⇩大阪市役所前の投票を呼び掛ける立て看板(選挙管理委員会)と投票所入場整理券(筆者宛)
漸く(ようやく)遅い秋到来の神無月(10月)下旬、「民主主義」「多数決原理」と「政党政治」の名の下、国会議員(政府)が国民の「信」を問い「民意」が反映される「第50回衆議院議員総選挙」が終盤戦を迎えています。国民の「支持率騰落」に一喜一憂する政党(与野党)が「過半数」の議席を争い、街頭演説や選挙 car など選挙活動も喧しい(かまびすしい)中、まさに「数の論理」が熱を帯びています。この深層にあるのは所謂(いわゆる)「党利党略」か、政党(与野党)間で対立する候補者(政治家)の、また有権者(国民)が候補者(政治家)に対して抱く Ressentiment(ルサンチマン:後述)か。かつて英国の首相 Sir Winston Churchill は、「民主主義」について箴言(しんげん)を残しています。『民主主義は最悪の政治形態である。ただし、過去試みられた他のすべての政治形態を除いては。』(Indeed it has been said that democracy is the worst form of Government except for all those other forms that have been tried from time to time.)
そうした中、京都市は上京区「京都御苑」内の「京都御所」(Kyoto Imperial Palace)を訪れました。水無月(6月)(【第10回】男爵・若槻元首相(Baron, Former Prime Minister of Japan, Wakatsuki)挿話《其ノ弐》―勲功華族の功績― | 株式会社有田アセットマネジメント|無形資産・有形資産を適切に管理、運用、保全し、次代へ安全に継承する資産管理会社 (aam.properties))以来4ヶ月ぶりの訪問となる今回、向学のため当社海外渉外顧問(無償)の Wolf (筆者内縁)を帯同しました。
江戸時代までは御苑内に、禁裏御所を取り囲む様に由緒ある公家邸宅が建ち並んでいましたが、明治維新を機に明治天皇や皇族とともに東京へ移住、約100万平米におよぶ広大な敷地は現在、緑豊かな公園として国内・海外からの観光客に開かれています。(この日も、観光客の大半が訪日外国人)
①元老(げんろう)制度と重臣會議
筆者の母方の遠い姻戚(relative by marriage)にあたる男爵・若槻禮次郎(れいじろう)公は、1906年(明治39年)1月、第1次西園寺公望(きんもち)内閣時に大蔵次官に任ぜられたのち政界に転じました。若槻公は大正末期から昭和初期の政治的・経済的に混迷を極めた時代に内閣総理大臣を2度(第25・28代)務め、その後も長らく「重臣會議」の一員として我が国政治に国際協調・和平派の立場で寄与しました。公の第1次、第2次組閣において、西園寺公が「元老」としてその「奏薦」(そうせん)(※1)に関与しています。
若槻公はその自伝『古風庵回顧録』の第3章で、西園寺公との誼(よしみ)について触れています。以下に原文のまま引用したいと思います。『私は桂公から最も深い知遇を受けた。それは終生忘れることの出来ない感激であるが、また西園寺公からも一方ならぬ知遇を受けた。西園寺公は人一倍ものやさしい方で、その言葉使い、その態度などいわゆる「ぶらず」という方で、総理大臣ぶらず、公爵ぶらず、誰をも極く平等に待遇され、相当の敬意を払われる。だから公と話をして帰ると、みな非常に好い気持になる。誰にも好感を持たれる方であった。そしてそれは他人に対してばかりでなく、家人に対してもその通りであったようだ。』
さて「重臣會議」は昭和初期に存在した、天皇に対する後継首相の「奏薦」や国家の最重要事項に関する意見具申のための機関です。天皇の諮問に応じて「内大臣」(ないだいじん)(※2)により主宰され、首相経験者のうち「前官礼遇者」(功労顕著により、退官後も在官中の待遇を与えられた者)と「枢密院」(すうみついん)(※3)議長および主宰者である「内大臣」により構成されました。「重臣會議」は最後の「元老」である西園寺公自身が最晩年に構想し設置を勧告したものであり、「重臣」を構成する首相経験者の召集も公自身により行われています。これは憲法・法律上の規定によらない非公式な機関であり、大東亜戦争後に「内大臣」および「枢密院」が廃止されるまで開催されました。
この「元老」制度の権能は、天皇の「輔弼(ほひつ)」(天皇の大権行使に対し助言・進言すること)や後継首相の「奏薦」など、国家の最重要事項に関与するものでした。因みに「老」とは「物事に通じている年長者」の意味をもちます。なお、明治維新後(明治初期)に新国家建設の功労者として実権を掌握した、大久保利通公や西郷隆盛公、木戸孝允公など、少し前の世代にあたる薩長出身の指導的政治家は「元勲」(げんくん)と呼ばれました。
1889年(明治22年)に黒田清隆公が首相を辞任し、伊藤博文公が「枢密院」議長を辞任する折、明治天皇から「元勲優遇」の詔(みことのり)を受けました。以後、下表(敬称略)の通り、山県有朋公、松方正義公、井上馨公、西郷従道公、大山巌公、桂太郎公、および西園寺公が加わった9名が「元老」となりました(一説に桂太郎公を除いて8名とも)。公家出身の西園寺公を除く8名は、いずれも薩長(武家)出身の藩閥政治家でした。これら「元老」を召集した「元老会議」についても、憲法・法律上の規定によらない非公式な機関でありました。
(※1)奏薦:天皇の「下問」(かもん)に対して後継首相を推薦すること、その後に天皇から後継首相へ組閣の「大命降下」の流れ
(※2)内大臣:天皇を常侍「輔弼」して詔勅など宮中内部の文書に関する事務を司った宮内官、初代「内大臣」は三条実美(さねとみ)公
(※3)枢密院:「大日本帝国憲法」第4章(国務大臣及枢密顧問)第56条「天皇ノ諮詢(しじゅん)ニ応ヘ重要ノ国務ヲ審議」の規程に基づく国政及び皇室に関する天皇の最高諮問機関、「勅選」による議長・副議長・顧問官などで構成され初代議長は伊藤博文公
②最後の元老・西園寺公望公と権能の正当性
公爵(Prince)・西園寺公望(きんもち)公は1849年(嘉永2年)、「清華家」(せいがけ)(※4)の一つであり、東山天皇の6世子孫である従一位右大臣・徳大寺公純(きんいと)公の第2子として出生。2歳の折、同族の「清華家」西園寺師季(もろすえ)公の養子となったのち、師季公の死去に伴い幼年にして家督を相続しました。実兄は、明治天皇の「侍従長」(じじゅうちょう)などを務めた公爵・徳大寺実則(さねつね)公。維新に際しては「戊辰戦争」に参加しています。1882年(明治15年)伊藤博文公の憲法調査に随行して渡欧、オーストリア、ドイツ、ベルギー各国の駐在公使を務めました。帰国後に「賞勲局」(しょうくんきょく)総裁、「枢密院」枢密顧問官などを経て、第2次伊藤、第2次松方、第3次伊藤の各内閣で文相、外相を務めました。1900年(明治33年)に「枢密院」議長、1903年(明治36年)に「立憲政友会」総裁を経て、1906年(明治39年)に首相となり、以後、桂太郎公と交互に首相を務めました。
若槻公の自伝『古風庵回顧録』の第7章で、西園寺公と桂公の仲について触れています。以下に原文のまま引用したいと思います。『一たい桂公と西園寺公の仲は、この前の西園寺内閣のときは、桂公がこれを助けた。それは西園寺公は政友会の総裁であるから、衆議院の方は大たい思うように行くが、貴族院はそうは行かない。時にツムジを曲げる。桂公は貴族院に同志が多いから、そういうときにうまく話を纏める。この両者の間というものは、実にお互いによく理解し合っている。前にも述べたように、西園寺内閣で逓信大臣と大蔵大臣とが喧嘩をすれば、桂公がその仲裁に立つ。第二次桂内閣のときには、情意統合ということで、西園寺公がこれを助ける。しかし西園寺という人は、細かいことをかれこれいわない。自分はただ大綱をつかんでいて、あとのことは原敬と松田正久に任せるというやり方であった。』
大正期には「元老」の政治的比重は次第に低下し、1922年(大正11年)山県公の死後は、西園寺公が後継首相の選任を行い、1924年(大正13年)松方公の死後は名実ともに最後の「元老」となりました。公は理想的な「政党政治」を目指してその実現に寄与しましたが、政党間の対立や台頭してきた軍部との関係に苦悩しました。また1937年(昭和12年)近衛文麿公を首相に推薦したのを最後に、老齢を理由にこれを辞退。以後は前述の「重臣會議」に天皇の諮問先が移りました。「元老制度」は1940年(昭和15年)西園寺公の死去に伴いその役割を終えました。
大正天皇が幼少より病弱のため、青年「摂政」(皇太子裕仁親王)が置かれた状況下、上述の通り、1924年(大正13年)以降は西園寺公がただ一人「元老」権能を担うにあたり、その正当性の是非や「元老制度」存廃についての議論が続いていました。京都大学大学院、法学研究科教授の伊藤之雄(ゆきお)氏は、その著書『元老―近代日本の真の指導者たち』の第10章において、ここに2つの大きな問題があったと述べています。
1.当時の日本の政党は発達が未成熟で、全体としての「公共性」を追求するよりも、自らの選挙区における公共事業等の「地方利益」を求める方向にあったこと。また衆議院(下院)で最大勢力(多数党)の指導者が組閣する、英国の様な慣例が十分に確立していなかったこと。
2.高齢の西園寺公に万一のことがあれば、「摂政」裕仁親王に後継首相を推薦する「元老」が不在となってしまうこと。すなわち、公の目指していた、「政党政治」の健全な発達を促す能力・価値観のある「元老」の補充が、結果的に実現できなかったこと。
これに対して西園寺公は柔軟な対応を図り、首相交代の際に「元老」に加えて「内大臣」にも天皇の下問がある様に、後継首相の推薦様式を変更する旨を「摂政」裕仁親王へ奏上し、その後の局面で順当に運用されていきます。また、「践祚」(せんそ)するも未だ青年の(昭和)天皇をただ一人の「元老」として「輔弼」し、「満州事変」を機に政党政治に反発し台頭する軍部(陸軍)を統制せんとする公の姿勢に、「元老制度」の正当性を疑う報道機関等の折からの議論は解消していきました。またこの流れが、前述の「重臣會議」の枠組みへと受け継がれることとなります。
(※4)清華家:公家の家格の一つで最上位の「五摂家」(ごせっけ)に次ぐ序列、太政大臣になることのできる主に7家(三条・西園寺・徳大寺・久我・花山院・大炊御門・菊亭)が該当
⇧(写真上・中段)「御所・建礼門(けんれいもん)」前に位置する「西園寺邸跡」の石碑と駒札、(写真下)「白雲(しらくも)神社」
旧邸内は、西園寺公望公が私塾「立命館」を創設した地でもあります。1878年(明治11年)に西園寺家が東京へ移った後は、地名の「白雲村」に因んで「白雲神社」となり、同家が琵琶の宗家であることから音楽の神として祀られました。祭神は「妙音弁才天」(みょうおんべんざいてん)。西園寺家の家紋「左三つ巴」が窺えます。
③民主主義への哲学的随感
前述の伊藤之雄教授は『元老―近代日本の真の指導者たち』の序章において、「元老制度」が「民主主義に基づく公選でない中で、比較的適切な人物を首相に選び、世界の大勢を理解して近代日本外交の指導に大きな役割を果たした」、さらに「立憲政治の比較的円滑な展開や、政治参加の拡大と政党政治の展開を支えた」と言及しており、筆者もまた首肯するところです。「民主主義」や「多数決原理」は(政治の)意思決定上、相対的に有効な「手段」や「制度」また「プロセス」であって、絶対視されるものではないのかもしれません。また現代世界において我が国を含む西側諸国が、その正当性や普遍性を賛美し喧伝する様な、それ自体が政治や国家運営の「目的」や「目標」ではなく、「善政」や「国民の幸福」を担保するものでもないのかもしれません。
「民主主義」(Democracy)とは、国民(民衆)が「選挙権」(Suffrage)を行使して自らの代行者(代議員)を選出し、選出された代行者が国民(民衆)の意思を代行し、「多数決原理」(Majority Rule)の下に権力を行使するものです。「民主主義」の起源は古代ギリシャにあって、「君主政治」(Monarchy)や「貴族政治」(Aristocracy)との対比で用いられていました。しかしながら「民主主義」は、その後「衆愚政治」(Mobocracy)などを意味する蔑称として否定的な捉え方をされ、ようやく近代になって肯定的な概念として復権、(ごく近時の)第一次世界大戦後になって全世界に広まったものでした。
古代ギリシャの哲学者 Plato(プラトン)は「貴族政治」を擁護し、「民主主義」に対しては明確に否定的・批判的立場をとり、Aristotle(アリストテレス)もまた若干の留保付きながら同様の立場をとりました。さらに、時代を下ってドイツ人哲学者の Friedrich Nietzsche(ニーチェ)氏もまた「貴族政治」に共感を表明。既存のキリスト教的道徳性を批判し、この理念を継承した政治制度として「民主主義」にも批判的立場をとりました。著書『Zur Genealogie der Moral(道徳の系譜)』の中で同氏の説いた Ressentiment(ルサンチマン)とは、社会的弱者(民衆)が強者(支配層)に対する憎悪や怨恨、嫉妬を満たそうとする復讐心を指しますが、「民主主義」運動などにおいて、こうした群衆心理があてはまるとされます。
フランス人貴族の政治思想家 Alexis de Tocqueville 氏は、その著書『De la démocratie en Amérique(アメリカの民主政治)』の中で、「民主主義」とは「多数者の専制」(Tyranny of the Majority)であると説いています。すなわち、「民主主義」は多数派の「世論」による専制政治であると断じ、少数派の意見が排除され、大勢に順応し沈黙することを強いられる、社会の「同調圧力」(Conformity Pressure)であると指摘しました。しかし、多数派の意見が少数派のそれより常に優れ、また「正論」であるとは限らず、むしろ「正論」は概して少数派から発せられるものかもしれません。
また「衆愚政治」は、適切な選良(elite)である「少数の支配層」でなく、専門的教養や政治的・社会的判断力、徳性などが十分でない「(不特定)多数の民衆」が(政治の)意思決定に参加することで、社会全体が秩序と統制を失い、結果として「多数の不利益」を生じる状況を指します。そうした状況では、議論の停滞、詭弁や美辞麗句による扇動、刹那的な怒りや恐怖、嫉妬、偏見、あるいは偽善や利益誘導などの悪影響が発生します。「個人の(表現・言論の)自由」や「情報発信の効率性・利便性」を旗頭に、昨今世界で急速に普及している SNS(Social Networking Service)。社会に一定の恩恵を与える一方で「同調圧力」の源泉となり、政治利用化(世論誘導)や虚偽情報の拡散、また社会犯罪事件の温床となっている側面は、現代における「衆愚政治」の典型かもしれません。ただし、利用の主体・客体や目的、方法の如何では、大きな効用を生むともいえます。『小田原評定(おだわらひょうじょう)の労多き失政か、名君(めいくん)の一刀両断の善政か』
⇧<参考>『古風庵回顧録』、1950年(昭和25年)、若槻禮次郎(自伝)
⇧<参考>前田秀實氏(写真左、筆者の母方先祖の官吏、士族、正六位、「樺太廳」第三部長)と、同氏の追悼録『秀峰』に寄せられた若槻公の追悼文(写真右)
1905年(明治38年) 日露戦争後のポーツマス条約締結により、南樺太がロシアから日本に割譲され、1907年(明治40年)に行政機関として「樺太廳」(からふとちょう)が発足、拓務(たくむ)大臣の指揮監督下に置かれました。
※参考文献
『元老―近代日本の真の指導者たち』、伊藤之雄、2016年(平成28年)、中公新書
『古風庵回顧録』、1950年(昭和25年)、若槻禮次郎(自伝)
『「華族」の知られざる明治/大正/昭和史』、2021年(令和3年)、株式会社ダイアプレス
国立国会図書館 近代日本の元老たち|近代日本人の肖像 | 国立国会図書館
(同)西園寺公望|近代日本人の肖像 | 国立国会図書館
『アメリカにおけるデモクラシーについて』、Alexis de Tocqueville、岩永健吉郎(訳)、2015年(平成27年)、中公クラシックス