【第105回】「京都哲学研究所」《其ノ四》西田幾多郎氏「善の研究」/ニーチェ(Nietzsche)「善悪の彼岸」(Jenseits von Gut und Böse)―
⇧西田幾多郎氏が思索に耽り散策した京都市左京区「哲学の道」、その北端に配された石碑(撮影監修・画像加工筆者)
※本稿内容は筆者の個人的見解であり、筆者所属組織(現在および過去)の公式見解を示すものではありません。
(執筆中)
「平成」期以降、兎角(とかく)物事が「善」と「悪」、また「正」と「不正」の「二元論」で割り切られ、「政治的適正性」(Political Correctness)の増勢とこれに伴う「同調圧力」が年を追うごとに社会状況を複雑化させている(特に2010年代より顕著化しているように思われる)。これは、立法、行政、司法に次ぐ「第4の権力」と呼ばれるメディア(報道機関)より増幅されている側面が大きいと思われる。「多様性」(Diversity)「平等性」(Equality)「持続可能性」(Sustainability)など、「社会的正義」や「潔癖性」を過度に尊重する社会状況は、ある種の「息苦しさ」や「窮屈さ」を伴い「功罪」相半ばするものに感じられる。裏を返せば「昭和」期の社会は「陽」一極に囚われず「陰陽」「中庸」の概念に立脚し、ある種の「懐の深さ」や清濁併せ呑む「器量」を「暗黙知」として有していたと回顧される。「陰陽」(Yin and Yang)とはすなわち、万物は「陰陽両極」に立脚しており、「陰陽互根」(陰・陽の互いの存在で己が成り立つ)また「陰陽可分」(陰中の陽、陽中の陰、という状態がある)と捉えるものである。
千思万考するに古今東西、それぞれの社会において共有された「価値観」や「時代精神」が存在する。後世においてもそれらは「善悪の彼岸」(Jenseits von Gut und Böse)(※1)、すなわち善悪を超えた領域に立脚して捉えられるべきと思われる。「善と悪は紙一重」「必要悪」といった言葉もある。
①西田哲学と「京都哲学研究所」
西田幾多郎(にしだきたろう)氏は、戦前から戦中にかけて「西田哲学」/「京都学派」を創始し、代表的著作『善の研究』などで知られる哲学者(京都帝国大学名誉教授)。「西田哲学」は西田氏の家族に起きた、度重なる不幸に遭遇した「哀しみ」から生み出されたとされる。同じく京都大学名誉教授で社会思想家の佐伯啓思(さえきけいし)氏は、著書のいくつかで西田氏を取り上げている。佐伯氏は著書『西田幾多郎―無私の思想と日本人』『自由と民主主義をもうやめる』などにおいて、いくつかの根源的な命題に触れ卓見を述べている。(以下は筆者概括)
■「近代 Liberalism(自由主義)」の失敗
・ロシア・ウクライナ戦争、イスラエルとパレスチナ、イスラム過激派の台頭、中東の不安定化、中国やインドの大国化とグローバル・サウスの台頭など、リベラルな価値の普遍主義を掲げる、米国(西洋)の Globalism が現在機能していないことは明らかである。
・これは約100年前の第一次世界大戦後に生み出された、米国(西洋)による「リベラルな世界秩序(自由と民主主義を守る Globalism)」と「リベラルな経済運営(市場競争と補完的な福祉主義)」の失敗を意味している。すなわち、「自由」「民主主義」「法の支配」、また公正な市場競争、無難な経済政策を組み合わせて社会秩序を維持しようとする、「近代 Liberalism」の失敗である。
■大東亜戦争(対米戦争)下で説かれた「絶対矛盾的自己同一」
・世界各国の世界史的な使命は、同時に他国の承認を得て、また他国の独自性も承認するという歴史的な意義をもたねばならず、独善的であってはならない。これが西田氏の説く「多にして一の世界」であり「矛盾的自己同一の世界」であった。
・主権国家が多様に個性化する運動と、歴史的世界が一つになって自らを生成してゆく運動、この二つが同時に生じている。すなわち二重の運動が同時に生じる。あるいは硬貨の裏表の様な「同一現象の二つの側面」ともいえる。
■(大学の)「国際化」の真義
・戦前は帝国主義的な状況下、敵国(米国・英国)の本を手にしているだけで「非国民」といわれ、英語を話すなど言語道断という風潮があった。ところが今日まったく逆転し、Global な経済競争に勝つためには、国民を挙げて英語を話せる様にしなければならないという。
・こうした英語教育を否定しないまでも、その前に為すべきことがある。「手段」であるはずの英語が「目的」となっている。まずは自前の日本語で自己を表現し、他人と議論でき、家族や友人と真面(まとも)な会話ができることが先決。
・明治期、文明開化の時代に福沢諭吉公は『文明論之概略』の中で、思慮浅い人は古いものを捨てて国際化を進めれば文明化できると考える。しかしそれは外形だけのことで、日本人に一片の「独立心」がなければ何の意味もない、と記している。
■「無の思想」の概念―「絶対無」(独:Absolut Leere ※筆者訳)
・「絶対無」とは、西洋的な「有(存在)(独:Existenz ※筆者訳)の論理」に対する日本(東洋)の根源的で「絶対的」な概念。西洋では「無」(独:Nicht ※筆者訳)はあくまで「有(存在)」の否定形(非存在)。しかし日本人(東洋)に馴染む「無」(独:Leere ※筆者訳)は必ずしも「有(存在)」の否定ではない。いわば「無」は「有」を包摂し、「有」を背後で支え、「有」も「無」も超越したある境地と捉えられる。[とすれば、数多の惑星や星系(生命)を包み込む広大な宇宙空間(真空)の如き場所か。※筆者の認識]
・実在の究極に、絶対的な存在である「神」を見る西洋的思考では、絶対者(神)は己の「外面」にある絶対的な他者となる。これに対し日本(東洋)的な観念では「絶対的」なものが「無」へ向かい、「私」や「我」を消し去り自己の「内面」(鏡)を深く覗き込むことで、根源的な精神の境地ともいうべき「無」へ行き着く。
・「般若心経」(はんにゃしんぎょう)(※2)の根本教理にある「色即是空(しきそくぜくう)」(※3)「空即是色(くうそくぜしき)」に通底する。
■「無私」と「一期一会」(いちごいちえ)の精神性
・「無」の概念が日本人の行為の理解にも影響を及ぼしている。「私」を消し去ることによる「無私」の行為。そして行為の純粋さそのものに意味を与える。
・「無の思想」では、あらゆる日常の些細な出来事の中にも「一期一会」の邂逅(かいこう)を通した「無」を見る。一瞬で散りゆく桜に「死」や「無」を投射し、生の儚さ(はかなさ)、散り際の美学、時間の過ぎ行く無残さなどを見る。
・ただ「一つ」のものとの邂逅にすべてがあり、「世界」はものによって充満するのでなく「一つ」のものの中に「世界」があると考える。
NTT 取締役会長の澤田純氏は、2021年(令和3年)に『パラコンシステント・ワールド―次世代通信 IOWN と描く、生命と IT の〈あいだ〉』を著した。澤田会長は同著で、二律背反(二項対立)する A も B も同時に存在(実現)する「矛盾許容論理」すなわち「Paraconsistent Logic」について、前述した西田哲学の「絶対矛盾的自己同一」の概念に近いものと捉えている。
「consistent」とは「矛盾を含まない」(形容詞)との意であり、「inconsistent」とは「矛盾を含む」(形容詞)との意。「矛盾を含む」場合、命題は否定され論理は破綻してしまう。一方「paraconsistent」とは、「矛盾をそのままに許容・包摂した」(形容詞)との意味をもつ。「para」(接頭辞)は「beside」や「parallel 」に近い意味と考えられる(※筆者の認識)。よって「Paraconsistent Logic」とは、二律背反(二項対立)する問題(A か B か)について A/B 間の矛盾をそのままに許容・包摂しながら、A と B の「同時実現」を目指す第三の道(論理体系)といえる。そこでは、命題は否定されず論理も破綻しない。現代社会ではA か B かといった「二元論」(Trade-Off)で解決不可能な事象が数多く存在する。「パラコンシステント・ワールド」においては、それらを解決するため「利他(※4)的共存」の下に企業の成長と社会的課題の解決を包摂し、「同時実現」を目指すとしている。
同会長は西田幾多郎氏と同じく京都大学の出身。西田哲学/京都学派の流れを汲む国内・海外(ドイツ他)有識者の賛同を受け、2023年(令和5年)7月に京都の地で「一般社団法人 京都哲学研究所」 京都哲学研究所 を創設した。同研究所では、「価値多層社会」の実現に必要な哲学思想の構築と社会的課題の解決を目指している。
【参考】「町田徹の経済チャンネル」(2026年2月27日)
なぜICTの巨人NTTが哲学の研究所を設立したのか。驚きの決断を、澤田会長にふかぼりインタビュー
②「善の研究」とニーチェ「善悪の彼岸」
『善の研究』は、西田幾多郎氏の最初の著作にして代表作となる至極難解の著である。同著は「第一編 純粋経験」「第二編 実在」「第三編 善」「第四編 宗教」の4編から構成されている。これについて氏はその「序」において次のように述べている。(下線・括弧内筆者)
この書は第二編第三編が先ず(まず)出来て、第一編第四編という順序に後から附加したものである。第一編は余の思想の根柢である純粋経験の性質を明らかにしたものであるが、初めて読む人はこれを略する方がよい。第二編は余の哲学的思想を述べたものでこの書の骨子というべきものである。第三編は前編の考を基礎として善を論じた積(つもり)であるが、またこれを独立の倫理学と見ても差支ないと思う。第四編は余が、かねて哲学の終結と考えて居る宗教について余の考を述べたものである。この編は余が病中の作で不完全の処(ところ)も多いが、とにかくこれにて余が云おうと思うて居ることの終(しまい)まで達したのである。この書を特に「善の研究」と名づけた訳は、哲学的研究がその前半を占め居るにも拘らず、人生の問題が中心であり、終結であると考えた故である。
19世紀ドイツ(プロイセン)の哲学者 Friedrich Nietzsche は、著書『善悪の彼岸』(Jenseits von Gut und Böse)で、キリスト教的道徳また民主主義政治の下に、「畜群」(Herde)として平等意識に安住する市民を批判している。これら既成の秩序・道徳が指し示す「善悪」の基準は、飼いならされた家畜のもつような「奴隷道徳」(憐憫道徳、畜群道徳)であるとし、こうした「善悪」の観念を超えた「超人」(Übermensch)の道徳を確立しなければならないとした。
これに対する反論もある。英国の哲学者でカリフォルニア大学ロサンゼルス校教授、『』(原題:Natural Goodness)。氏はその第7章「反道徳主義」において、 Nietzsche が著書『道徳の系譜』(Zur Genealogie der Moral)で行った以下に引用(下線筆者)する主張に対して、Nietzsche を反道徳主義者であるとして否定的立場をとっている。
正と不正をそれ自体として論ずるのはまったく無意味なことである。生きることが本質的に、すなわちその根本機能において侵害的、暴圧的、搾取的、破壊的にはたらくものであって、こうした特徴なしにはまったく考えられないものである限りは、侵害も暴圧も搾取も破壊もそれ自体としては何ら<不正なもの>ではない。
(※1)善悪の彼岸:ドイツ人哲学者 Friedrich Nietzsche(フリードリヒ・ニーチェ)による1886年刊行の著書、既存のキリスト教的道徳性を批判し、善悪を超えた領域に立脚することを提唱
(※2)般若心経:正式には「般若波羅蜜多心経」(はんにゃはらみったしんぎょう、梵:Prajñā-pāramitā-hṛdaya)、「空」(くう)の中心思想をもつ「大乗仏教」の「経典」のうち、最も短く凝縮された一巻でインドの原典を漢語訳したもの
(※3)色即是空:この世の「目に見える万物」に実体はなく、その本質は「空」(くう)/「無」であって時々刻々変化するとの意
(※4)利他(りた):自らの利益や幸福のみを図る(利己的振る舞い)のでなく、それ以上に他者の利益や幸福を気遣い扶助する道徳的価値、キリスト教の「愛」や仏教の「慈悲」、儒教の「仁」などに通底、また一方では、自然環境の「生態系」(Ecosystem)において動植物が相互に依存・影響し合う「共存共栄」の概念
※参考文献
澤田純『パラコンシステント・ワールド―次世代通信 IOWN と描く、生命と IT の〈あいだ〉』、NTT 出版、2021年
ニュートンプレス『』、ニュートンプレス、2026年
『』(原題:Jenseits von Gut und Böse)、岩波書店、1970年
『』(原題:Natural Goodness)、筑摩書房、2014年
品川哲彦『』、中央公論新社、2020年
西田幾多郎『』、岩波書店、1950年
佐伯啓思『西田幾多郎―無私の思想と日本人』、新潮社、2014年
佐伯啓思『自由と民主主義をもうやめる』、幻冬舎、2008年
佐伯啓思『さらば、民主主義―憲法と日本社会を問いなおす』、朝日新聞出版、2017年
佐伯啓思『反・民主主義論』、新潮社、2016年
Alexis de Tocqueville、岩永健吉郎(訳)『アメリカにおけるデモクラシーについて』(原題 仏:De la démocratie en Amérique)、中公クラシックス、2015年
Patrick Deneen、角敦子(訳)『リベラリズムはなぜ失敗したのか』、原書房、2019年






