【第97回】Colonialism|Globalism と Standardization《中篇》19~20世紀前半 帝国主義(Imperialism)―英・仏・米からのアジア独立解放戦争―
※本稿内容は筆者の個人的見解であり、筆者所属組織(現在および過去)の公式見解を示すものではありません。
(【第96回】から続く)
「帝国主義」(Imperialism)とは、19世紀から20世紀前半にかけて欧米列強(西欧諸国および米国)が、アジアやアフリカを中心に世界のほぼ全域で自国の利益・領土・勢力の拡大を図った、他国や他民族の分割支配競争(政治・経済・軍事面での従属、暴虐行為や人種差別、思想・言語の強制、植民など)の潮流をいう。独占資本主義の転化と見る説もある。その起源は古代ローマ帝国の Imperium に遡る。Imperium とは命令権、すなわち最高公職者権限(行政的執行権)の総称を指す。しかしローマ帝国がカルタゴなどとの不断の戦争によって地中海に覇権を確立するとともに、Imperium はローマ帝国による他民族の支配を意味する様になった。これと並行して、その支配形態も元老院などの法的手続を経た正当な授権に基づくものから、軍事力と富にものをいわせたあからさまな権力行使が増加するに至った。
近代に入っての帝国主義は、1814年のウィーン会議(Congress of Vienna)から第一次世界大戦に至る100年ほどの間に顕著であった。1830年代のフランスにおける Napoléon Ier による帝国の版図回復をめざす集団が帝国主義者と呼ばれ、次いで1840年代末より Napoléon III による植民地獲得のための海外派兵と膨張主義がそれに該当する。また英国は、1840年代にはインドにおける植民地(東インド会社/East India Company)の拡大が急速に行われ、1840年代末よりオーストラリアなど移住植民地への移民が急増した。19世紀中葉に、英国は世界全域で通商上の覇権を確立するとともに軍事力を発揮し領土の併合を行っていった。19世紀末には軍備を増強して「世界政策」を掲げる欧州列強諸国間の競争が激化し、20世紀に入り1914年に第一次世界大戦が勃発した。これらは、世界中の非白人地域に対する「植民地支配」(Colonial Rule)競争がその飽和点に達し、植民地の文明化を大義名分として正当化(Justification)されてきた歴史の一つの帰結であった。そして1945年の第二次世界大戦終結により、アジア・アフリカなどの植民地諸国における宗主国からの独立運動をみた。
なお筆者の認識では、この植民地支配側の対象からドイツ(およびドイツ系米国人)を除外したい。ドイツは神聖ローマ帝国(独:Heiliges Römisches Reich)(※1)の系譜を継ぐ、長い歴史を有する極めて卓越した民族・大国といえる。にもかかわらず、日本同様に領邦国家(独:Territorium)(※2)の権限が強かったため、中央集権体制と統一国家の形成が遅れた(19世紀後半)。そうした歴史の綾から、対外的な(有色人種の土地への)植民地獲得の動きは他の欧米諸国と比して極めて小さかったといえる。また20世紀に入っても、「帝国主義の先発国」対「後発国」の構図となった第一次世界大戦での敗戦に続き、第二次世界大戦における敗戦国として、これまた日本同様に、戦勝国(連合国)から Nuremberg 裁判において、一方的かつ徹底的に裁かれる立場にあった。あたかも出る杭が打たれるが如く、その卓越性故に国力を削がれたのである。剰え(あまつさえ)、米国・英国・フランス・ソビエト連邦の4ヶ国による「分割統治」と、この後生じた Ideology 陣営対立(自由主義社会 × 社会主義社会)の煽りを受け、1989年まで長らく続いた「東西分断」の悲劇を被っている。
(※1)神聖ローマ帝国:962年に「オットー1世」(独:Otto I)がローマ教皇から戴冠を受けドイツ王国を基盤に成立した帝国の呼称
(※2)領邦国家:皇帝権から独立して領邦内の主権を行使した三百有余の部分国家的な諸侯領
①19世紀~20世紀前半における日本の軌跡とドイツ
19世紀(幕末から明治維新期)において日本は、欧米列強の帝国主義によるアジア植民地支配と有色民族統治の脅威に対抗し、その勢力に伍していくための現実解として富国強兵に邁進した。しかし20世紀に入り、縷々(るる)変遷する国際状況を見据えて協調路線に努めながらも、日清・日露戦争の勝利を経て国力を高めた日本は、欧米がそれ以前の数世紀間に植民地支配を行っていた東アジア・東南アジアへの進出を果たし権益の獲得に乗り出した。しかしこうした既得権益の奪取につながる動きに反発した欧米は、日本に対して経済封鎖(ABCD 包囲網(※3)による石油禁輸)の手段を講じた。そうした流れから結果的に、日本は大東亜戦争において米国・英国・フランスなどの連合国(戦勝国)に敗れ、戦後の国体解体を余儀なくされた。
ここに筆者は、帝国主義の「後発国」として欧州列強の植民地分割支配競争に遅れて参入し、既得権益をもつ英国・フランスなど「先発国」との対立の結果、2つの世界大戦での敗北と大戦間期(1919年)の「ヴェルサイユ条約」(Traité de Versailles)に基づく賠償金負担を強いられ、戦後の連合国(戦勝国)側による国体解体を余儀なくされたドイツとの共通性を垣間見る。
(※3)ABCD 包囲網:1930年代に日本に対し石油の輸出規制や在米資産凍結を行った、米国(America)、英国(Britain)、中国(China)、オランダ(Dutch)各国の頭文字を並べたもの

⇧ドイツ連邦共和国総領事館が所在する、大阪市北区の梅田スカイビル・タワーイースト前に掲揚の日独国旗
②大東亜戦争がもたらしたアジア独立解放の意義
「大東亜共同宣言」は、1943年(昭和18年)11月にアジア諸国の首脳を集め東京で開催された「大東亜会議」で発表された共同宣言である。大東亜戦争の最中、日本政府はアジアを欧米の植民地支配から解放するとの理念(大東亜共栄圏)を提示して連合国に対抗するとともに、太平洋における連合国の本格的反攻に備えてアジア諸国の戦争協力を仰いだ。共同宣言では、1941年の「大西洋憲章」(英米合意)に対抗する戦後構想を提示せんとの日本外務省の意図により、自主独立の相互尊重や互恵に基づく経済連携、人種差別の撤廃といった理念が本文に盛り込まれた。
会議には日本の東条英樹首相に加え、満洲国の張景恵(ちょう・けいけい)国務総理、中国南京政府の汪兆銘(おう・ちょうめい)行政院長、ビルマ(当時)の Ba Maw 行政府長官、フィリピンの José Paciano Laurel 大統領、タイの Wan Waithayakorn 親王、自由インド仮政府の Subhas Chandra Bose が参加した。
以下は「世界はどのように大東亜戦争を評価しているか」と題した、保守系団体「日本会議」による各国識者見解の紹介である。(引用・識者名表記改変筆者) 世界はどのように大東亜戦争を評価しているか « 日本会議
■イギリス
Arnold Toynbee 歴史学者
「第2次大戦において、日本人は日本のためというよりも、むしろ戦争によって利益を得た国々のために、偉大なる歴史を残したといわねばならない。その国々とは、日本の掲げた短命な理想であった大東亜共栄圏に含まれていた国々である。日本人が歴史上に残した業績の意義は、西洋人以外の人類の面前において、アジアとアフリカを支配してきた西洋人が、過去200年の間に考えられていたような、不敗の半神でないことを明らかに示した点にある。」(1956年10月28日/英紙「オブザーバーL)
■アメリカ
Joyce Lebra コロラド大学歴史学部教授
「日本の敗戦、それはもちろん東南アジア全域の独立運動には決定的な意味をもっていた。いまや真の独立が確固とした可能性となると同時に、西洋の植民地支配の復活も、許してはならないもう一つの可能性として浮び上がってきたのである。民族主義者は、日本占領期間中に身につけた自信、軍事訓練、政治能力を総動員して、西洋の植民地支配復帰に対抗した。そして、日本による占領下で、民族主義、独立要求はもはや引き返せないところまで進んでしまったということをイギリス、オランダは戦後になって思い知ることになるのである。」(「東南アジアの解放と日本の遺産」)
George Kanahele 政治学博士
「日本占領軍がインドネシア民族主義のために行った種々の仕事のなかで、最も重要なものの一つは、正規軍及び准軍事組織を創設して、それに訓練を与えたことである。…このような機会がなかったならば、戦後のインドネシア民族革命の経過は違ったものになっていたであろう。」(「日本軍政とインドネシア独立」)
■オランダ
Eduard van Thijn アムステルダム市長 現内務大臣
「本当に悪いのは侵略して権力を振るっていた西欧人の方です。日本は敗戦したが、その東亜の解放は実現した。即ち日本軍は戦勝国の全てを東亜から追放して終わった。その結果、アジア諸民族は各々独立を達成した。日本の功績は偉大であり、血を流して闘ったあなた方こそ最高の功労者です。自分をさげすむことを止め、…その誇りを取り戻すべきであります。」(1985年日本傷痍軍人会代表団がオランダを訪問した時行われた市長主催の親善パーティの歓迎挨拶)
■タイ
Kukrit Pramoj 元首相
「日本のおかげで、アジアの諸国はすべて独立した。日本というお母さんは、難産して母体をそこなったが、生まれた子供はすくすくと育っている。今日、東南アジア諸国民が、アメリカやイギリスと対等に話ができるのは、一体だれのおかげであるのか。それは『身を殺して仁をなした』日本というお母さんがあったためである。12月8日は、われわれにこの重大な思想を示してくれたお母さんが、一身を賭して重大決意された日である。さらに8月15日は、われわれの大切なお母さんが、病の床に伏した日である。われわれはこの2つの日を忘れてはならない。」
■マレーシア
Raja Dato Nong Chik 元上院議員
「私たちは、マレー半島を進撃してゆく日本軍に歓呼の声をあげました。敗れて逃げてゆく英軍を見たときに、今まで感じたことのない興奮を覚えました。しかも、マレーシアを占領した日本軍は、日本の植民地としないで、将来のそれぞれの国の独立と発展のために、それぞれの民族の国語を普及させ、青少年の教育をおこなってくれたのです。」
Ghazali Shafie 元外務大臣
「日本はどんな悪いことをしたと言うのか。大東亜戦争で、マレー半島を南下した時の日本軍は凄かった。わずか3カ月でシンガポールを陥落させ、我々にはとてもかなわないと思っていたイギリスを屈服させたのだ。私はまだ若かったが、あの時は神の軍隊がやってきたと思っていた。日本は敗れたが、英軍は再び取り返すことができず、マレーシアは独立したのだ。」
Zainal Abidin 歴史学者
「日本軍政は、東南アジアの中で最も政治的意識が遅れていたマレー人に、その種を播き、成長を促進させ、マラヤにおける民族主義の台頭と発展に、大きな〝触媒″の役割を果たした」
■インドネシア
Mohammad Natsir 元首相
「アジアの希望は植民地体制の粉砕でした。大東亜戦争は、私たちアジア人の戦争を日本が代表して敢行したものです。」
Alamsyah 元第三副首相
「我々インドネシア人はオランダの鉄鎖を断ち切って独立すべく、350年間に亘り、幾度か屍山血河の闘争を試みたが、オランダの投智なスパイ網と、強靭な武力と、苛酷な法律によって、圧倒され壊滅されてしまった。それを日本軍が到来するや、たちまちにしてオランダの鉄鎖を断ち切ってくれた。インドネシア人が歓喜雀躍し、感謝感激したのは当然である。」
Sambas 元復員軍人省長官
「特にインドネシアが感謝することは、戦争が終わってから日本軍人約1000人が帰国せず、インドネシア国軍とともにオランダと戦い、独立に貢献してくれたことである。日本の戦死者は国軍墓地に祀り、功績を讃えて殊勲章を贈っているが、それだけですむものではない。」
Bung Tomo 元情報相
「日本軍が米・英・蘭・仏をわれわれの面前で徹底的に打ちのめしてくれた。われわれは白人の弱体と醜態ぶりをみて、アジア人全部が自信をもち、独立は近いと知った。一度持った自信は決して崩壊しない。…そもそも大東亜戦争はわれわれの戦争であり、われわれがやらねばならなかった。そして実はわれわれの力でやりたかった。」(昭和32年の来日の際の発言)
■インド
Sarvepalli Radhakrishnan 大統領
「インドでは当時、イギリスの不沈戦艦を沈めるなどということは想像もできなかった。それを我々と同じ東洋人である日本が見事に撃沈した。驚きもしたが、この快挙によって東洋人でもやれるという気持ちが起きた。」(昭和44年、日本経済新聞)
Habibur Rahman 元インド国民軍大佐
「ビルマ、インドネシア、フィリピンなどの東アジア諸国の植民地支配は一掃され、次々と独立し得たのは、日本がはぐくんだ自由への炎によるものであることを特に記さなければならない。」
Bhulabhai Desai インド弁護士会々長
「インドは程なく独立する。その独立の契機を与えたのは日本である。インドの独立は日本のお蔭で30年早まった。これはインドだけではない。インドネシア、ベトナムをはじめ東南アジア諸民族すべて共通である。インド4億の国民は深くこれを銘記している。」(1946年の軍事裁判に出廷した藤原岩市氏らに)
■スリランカ
Junius Richard Jayewardene 大統領
「往時、アジア諸民族の中で、日本のみが強力かつ自由であって、アジア諸民族は日本を守護者かつ友邦として、仰ぎ見た。…当時、アジア共栄のスローガンは、従属諸民族に強く訴えるものがあり、ビルマ、インド、インドネシアの指導者たちの中には、最愛の祖国が解放されることを希望して、日本に協力した者がいたのである。」(1951年、サンフランシスコ対日講和会議演説)
■ビルマ(当時)
Ba Maw 元首相
「歴史的に見るならば、日本ほどアジアを白人支配から離脱させることに貢献した国はない。しかしまたその解放を助けたり、あるいは多くの事柄に対して範を示してやったりした諸国民そのものから、日本ほど誤解を受けている国はない。」「もし日本が武断的独断と自惚れを退け、開戦当時の初一念を忘れず、大東亜宣言の精神を一貫し、商機関や鈴木大佐らの解放の真心が軍人の間にもっと広がっていたら、いかなる軍事的敗北も、アジアの半分、否、過半数の人々からの信頼と感謝とを日本から奪い去ることはできなかったであろう。日本のために惜しむのである。」(「ビルマの夜明け」)
■シンガポール
Goh Chok Tong 首相
「日本軍の占領は残虐なものであった。しかし日本軍の緒戦の勝利により、欧米のアジア支配は粉砕され、アジア人は、自分たちも欧米人に負けないという自信を持った。日本の敗戦後15年以内に、アジアの植民地は、すべて解放された」(「諸君!」平成5年7月号)
③白人同士の内輪揉め(西欧 対 中欧)
元名古屋大学教授・木谷勤氏は、その著書『帝国主義と世界の一体化』の<⑥ヨーロッパの分裂と「周辺」民族主義のめざめ>で、20世紀欧州を舞台に起こった2つの世界大戦に関して、次のような機知に富んだ見解を述べている。(下線・括弧内筆者)
(前略)一九世紀以来ドイツ知識人のあいだに深く根をおろした西欧の「堕落した文明」にたいする中欧=ドイツの「創造的文化」の優越性というステレオタイプが、イデオロギー戦争の武器として取り上げられた。物質対精神、啓蒙的合理主義の明快にたいするロマン主義の深淵・複雑といった文化的異質性の主張ととともに、西欧議会政治の民主主義にたいしドイツ立憲政治の権威主義の優位が強調され、フランス革命に由来する「一七八九年の理念」にたいし「一九一四年の理念」が喧伝された。「遅れてきた国民」という歴史的条件に加えて、中欧という地政学的条件から生まれたこの理念(西欧的ヒューマニズムにたいする敵意)は、大戦中連合国による包囲から生まれた軍事的、経済的そしてイデオロギー的孤立のなかでさらに内攻し、研ぎすまされた。
(前略)しかも植民地民衆の目に、同じ文明と神(キリスト教文明)の名のもとに殺しあいを続ける白人支配者の姿は今までと違って映りはじめていたに違いない。(中略)同様に一九二一年に『白人支配にたいする有色人種の上げ潮』を著したT・L・ストッダードは、大戦中のこの変化についてつぎのようにいっている。「有色人種は突然、白人たちがたがいに相手を不倶戴天の敵として激しく非難するのをみた。白人自身のつくった政治的・精神的亀裂から生まれた彼らの団結の裂け目がもはや修復できないのをみた。」
この構図は、Trump 政権の登場が生んだ現在(21世紀)の「米欧間の(静かな)対立」状況と重なって見える。
④「白」対「有色」
木谷氏は同著の<⑤支配・差別・排除>で、「社会進化論」(社会ダーウィニズム)を説いた19世紀・英国の社会学者 Herbert Spencer が抱いていた人種偏見の認識を、以下のように取り上げている。(下線筆者)
しかしそのスペンサーさえ「文明人」(ヨーロッパ人)と「野蛮人」のあいだに生物学的形質の差異をみて、「脳髄をおおう骨の大きさが大きいほど高等であり、頸骨その他も、人間のほうがほかの動物より頑健であり、さらにヨーロッパ人のほうが野蛮人よりも頑健である」また「ヨーロッパ人が子どものときもっていた下等人種に似た特徴―たとえば偏平な鼻―は成長するにつれ消える。つまり野蛮人種の特徴は文明人種のそれに変わる」と大まじめでいっていた。すなわちスペンサーは、人種によって異なる体の諸特徴に、そのまま文明人・野蛮人・動物、あるいは高等・下等の物差しではかった優劣の関係をみていたのである。
また注釈において、人間を皮膚の色で差別する偏見は欧州白人だけのものではないとして、次のように興味深い説明を加えている。(下線筆者)
(前略)たとえばインド(ヒンドゥー教)のカーストにおける四姓(ヴァルナ)はもともと肌の色を意味し、バラモン(白)、クシャトリア(赤)、ヴァイシャ(黄)、シュードラ(黒)と明るい色が暗い色より優位にたった。またある人種の肌色をどうみるかもときと事情によって変わり、ヨーロッパ人は中国人や日本人を十八世紀には「白」とみていたが十九世紀後半には「黄」とみなすようになった。
⑤石原氏・安倍氏の歴史認識(欧米史観)
保守政治家の石原慎太郎氏はかつて、その公式ウェブサイト 歴史の蓋然性について ー白人世界支配は終わったー|コラム|石原慎太郎公式サイト | 宣戦布告.net 上で、18世紀後半の、新大陸における白人中心国家・米国の成立における根底的かつ歴史的事実を痛烈に問うている。(抜粋、下線筆者)
今日声高に人権と民主主義を説いているアメリカもまたあの厖大なアメリカ大陸を、原住民だったアメリカインディアンを殺戮駆逐することで領有し国家として成立したのです。アメリカ大陸の東西を結ぶ大陸横断鉄道は白人たちが一方的に拉致してきて鉄道建設のために働かせた厖大な数のシナ人奴隷によって建設されたのです。
同氏はまた、日米貿易摩擦の最中(さなか)であった1989年(平成元年)に『「NO」と言える日本』を著し(共著)大きな話題を呼んだ。その中で、米国が日本に対してもつ人種偏見について言及している。(抜粋、下線筆者)
アメリカ人の人種偏見というのは、自国文化の自負に根を発しているわけで、確かにアメリカ人も含めたホワイトが近代をつくってきた、という自負はわかります。だが、その自負が強烈すぎてアメリカ自身、新興国だから、他国文化、とくにアジアへの視点に曇りがあるのではないか。
なお石原氏の歴史認識や欧米史観に相通ずるものとして、安倍晋三内閣総理大臣の未公開の肉声を収録した『安倍晋三 回顧録』の第5章「歴史認識」において、「キーワード網羅した戦後70年談話」と題した一節がある。ここで安倍氏の歴史観、欧米史観が極めて明確に示されている。その中で幾つか述べられた特筆すべき氏の言を以下に引用する。 (抜粋・下線・括弧内筆者)
村山談話(60年談話)の間違いは、善悪の基準に立って、日本が犯罪を犯したという前提で謝罪をしていることです。日本という国だけを見て、すみません、ということなのです。では、当時の世界はどうだったのか、という視点がすっぽり抜けている。70年談話は、日本は国際社会の潮流を見誤ったという、政策的な現状認識の誤りに基づいているのです。ここが決定的に違う。さらに、時間軸を100年前まで戻し、ここから未来に向けてどうしていくか、という視点を入れたのです。
村山談話は、日本だけが植民地支配をしたかのごとく書かれている。戦前は、欧米各国も植民地支配をしていたでしょう。人種差別が当たり前の時代、アフリカで残虐なことをしていた国もある。ベルギーの国王が、残虐行為をしたとしてコンゴ共和国に謝罪したのは、(ごく最近の)2020年ですよ。日本は過去、繰り返し中国や韓国、東南アジアに謝罪し、政府開発援助(ODA)などを通して実質的に賠償までしてきたでしょう。
19年のフランス・ビアリッツでのG7サミットで、ロシアによるクリミア半島の併合問題を議論している時、ある首脳が「クリミアを侵略したという一点をもって、ロシアを非難しなければならない」と言ったのです。これにボリス・ジョンソン英首相は反対しました。ジョンソンは「侵略という言葉を軽々に使わないでほしい。英国は歴史上、今の世界の4分の1の国を侵略したんだ」と言っていました。歴史学者のジョンソンはさすがですよ。

※参考文献
木谷勤『帝国主義と世界の一体化』、山川出版社、1997年
三谷郁也『白人侵略 最後の獲物は日本 ─なぜ征服されなかったのか 一気に読める500年通史』、ハート出版、2021年
石原慎太郎『「NO」と言える日本:新日米関係の方策』、光文社、1989年
安倍晋三(著)・橋本五郎(聞き手)・尾山宏(聞き手・構成)・北村滋(監修)『安倍晋三 回顧録』、中央公論新社、2023年






