【第17回】未曽有の高値更新―「大阪証券取引所」所縁(ゆかり)の地《3/4》―市場館 立会場―篇
※本稿の内容は筆者の個人的見解であり、筆者が所属する組織の公式見解を示すものではありません。
(【第16回】から続く)
今回は、前回【第16回】でみた「大阪株式取引所」の後身である「大阪証券取引所」が、戦後(大東亜戦争)に果たした役割について具体的に触れたいと思います。
同取引所は1949年(昭和24年)4月1日、証券会社を会員とした「証券会員制法人 大阪証券取引所」として再出発を果たし、同年5月16日に戦後の売買立会を再開、同年末には397社478種が同取引所に上場しました。これ以降、「大阪証券取引所」(大証)は、「東京証券取引所」(東証)、「名古屋証券取引所」(名証)とともに「三大証券取引所(市場)」と称されました。
その後、我が国経済は技術革新を軸とする「高度成長期」を迎え、株価は上昇の一途を辿り、中小企業も急速な成長を遂げます。これに伴い、「店頭取引」(取引所外で証券会社と投資家が相対で行う取引)が急速に拡大したことで、関係者の間では「店頭取引」を組織化する必要性が提起される様になりました。そうした中で、1961年(昭和36年)10月2日、東京・大阪・名古屋の各証券取引所に「市場第二部」が開設されました。
「大阪証券取引所」では、【第15回】で触れた「先物取引所」発祥の地、「堂島米会所」の系譜を受け継ぎ、1987年(昭和62年)6月、国内初の株式先物取引市場「株先50」が開設されます。また、1988年(昭和63年)9月には「日経平均株価(日経225)先物市場」が、1989年(平成元年)6月には「日経平均株価(日経225)オプション市場」が開設されます。そして、1990年(平成2年)に「日経平均株価(日経225)先物市場」が取引代金ベースで世界一に、さらに、1991年(平成3年)に「日経平均株価(日経225)オプション市場」も取引代金ベースで世界一となりました。
2001年(平成13年)4月には、「株式会社 大阪証券取引所」へ組織変更(株式会社化)が行われています。
※出典:株式会社 日本取引所グループ、「株式取引所開設140周年>沿革」(株式取引所開設140周年 | 日本取引所グループ (jpx.co.jp))
⇧(写真上)堺筋と土佐堀通の交差点に、北西方向に正面を向けて佇む(たたずむ)「大阪取引所」の建物、荘厳な品格を湛え(たたえ)、古典的形態の下にアール・デコ(Art Déco)様式を導入した秀逸な建築物、(写真下)同交差点の象徴、「難波橋(なにわばし)」(通称:ライオン橋)、橋詰の「阿吽(あうん)」の相による「獅子像」4体は、彫刻家 天岡均一(あまおかきんいち)氏の制作、(左)阿形像、(右)吽形像
「大阪取引所」の建物は「長谷部・竹腰建築事務所」による設計で1935年(昭和10年)4月に竣工、同年6月に発行の「一般社団法人 日本建築協会」会誌(※1)でも大きく掲載され、次の様に評されています。『大阪の経済中心地である北浜2丁目堺筋と北浜との交叉点に位置する、株式取引所の市場として規模において、設備において東洋一を目指したものである。西北隅を正面として玄関を設け大柱を廻らし上に楕円形の高塔を現時建築法規で許されるまで高めた。‥‥鉄骨鉄筋混凝土造で外部総花崗石張、外観は繊細華麗を避けて荘重雄大を念として意匠されている。‥‥』
また設計者の一人である竹腰健造(たけこしけんぞう)氏により次の様にも記されています。『‥‥難波橋の橋畔に聳え立つ白亜の殿堂を見て世の人は多く建築家のロマンチシズムを思ふだろう。尠くとも局外者のこの建築に関する話題はその外貌とか規模とかに集中しているようだ。然し建築当事者として見ればそういう話は深刻に響かない。此建物の中にて毎日幾千の人が最も真剣に運命を賭して競って居る。‥‥だから市場自體の物質的価値が此の建築の価値となるのであって、此の處に建築家としての苦心の最も大なるものが存して居るのである。』
なお「長谷部・竹腰建築事務所」は建築の設計監督を業とし、関東大震災に続く昭和金融恐慌に伴い「住友合資会社」が1933年(昭和8年)に工作部を廃止した直後、同部長の長谷部鋭吉(はせべえいきち)氏と同部建築課長の竹腰健造氏により創立されました。これが現在の「株式会社日建設計」の源流にあたります。
(※1)会誌「建築と社会」(第18輯6号)、一般社団法人 日本建築協会(The Architectural Association of Japan)、1935年(昭和10年)
⇧(写真上)「大阪証券取引所」の「市場館 立会場(たちあいば)」(trading floor)の風景、1960年(昭和35年)頃撮影、「大阪取引所」5階「OSEギャラリー」展示、(写真下)「立会場」は現存せず、同空間(現:「大阪証券取引所ビル」低層部)には、「大阪経済大学」(北浜キャンパス)、「北浜フォーラム」(貸会議室)(3階)や、「上島珈琲店」(1階)「そじ坊」(地下1階)などの飲食店が入居
「証券取引所」の象徴であった「市場館 立会場」は、2,000人もの「場立ち」(ばだち:会員証券会社などから派遣されて売買処理をする取引担当者)を収容した、1階から4層吹き抜け構造の大空間でした。1996年(平成8年)に始まる「金融ビッグバン」(金融制度改革)に伴い、1999年(平成11年)7月、売買取引が全面システム化され、往時、現場の熱気に包まれていた「立会場」の歴史に幕が下ろされました。
⇧(写真上)往時の「立会場」の風物詩であった「ハンドサイン」(hand signals)、(写真下)「場電席」(ばでんせき)の「黒電話」と「ヘッドフォン」、「大阪取引所」5階「OSEギャラリー」展示
当時、全国の証券会社からの注文は、「場電店」(ばでんてん)を通じて、取引所の専用電話席「場電席」にいる(各証券会社の)担当者に伝えられました。注文を受けた担当者は、「ハンドサイン」を用いて「立会場」にいる(各証券会社の)担当者「場立ち」に注文内容を伝えました。この「黒電話」と「ヘッドフォン」は、「場電席」の担当者により使用されていたものです。
筆者の世代では、米国 Ronald Reagan 政権下の1987年に公開された著名映画『Wall Street』(Oliver Stone 監督)で、「ニューヨーク証券取引所」の「立会場」の様子が映るワンシーンを彷彿とさせます。熟練された「ハンドサイン」のやり取りは「相場の華(はな)」と称され、人間同士のアナログなやり取り(証券会社担当者間の取引成立に向けた競り合い)が「立会場」という「現場」で日々行われていた、「人間味」溢れた時代に郷愁を覚えます。
(【第18回】へ続く)