【第57回】「作家・政治家」石原慎太郎氏《中篇》―「戦後」(Après-Guerre)に萌芽した「太陽の季節」/「戦中派」三島由紀夫氏との対峙―

※本稿の内容は筆者の個人的見解であり、筆者が所属する組織の公式見解を示すものではありません。
「大東亜戦争(対米戦争)後80年」の本年、「芥川賞作家」で国会議員・東京都知事を務めた「作家・政治家」石原慎太郎氏の遺した戦後史観、欧米史観を取り上げる。氏は1932年(昭和7年)9月30日、兵庫県神戸市生まれ(その後、神奈川県逗子市へ転居)の「昭和一桁」「戦後」(仏:Après-Guerre)世代。「昭和」「平成」「令和」を通じ國體の在り様に直言を呈した国士である。位階は正三位。
①神武景気の世相―「太陽の季節」と「太陽族」
大東亜戦争(対米戦争)敗戦後、日本は「東洋の奇跡」と称された急速な経済復興を果たした。1956年(昭和31年)経済企画庁(現・内閣府)の「年次経済報告」(経済白書) 昭和31年度 年次経済報告 では、『もはや「戦後」ではない。』と明言。ようやく平和な社会が浸透し消費生活が向上する一方で、戦後変革の夢を見喪って鬱屈した側面も表層化しだしていた。
高度経済成長の端緒である「神武景気」下にあった1955年(昭和30年)、石原慎太郎氏が一橋大学在学中に若干23歳で執筆した短編小説が『太陽の季節』である。裕福な家庭に育った若者(高校生)の無軌道な生活を通して、感情を物質化する新世代を描いた作品で、同氏の処女作であるとともに戦後文学の代表格とされる。筋書を一貫する非倫理性また暴力描写や残酷性は、文壇のみならず一般社会にも賞賛と非難を巻き起こした。翌1956年(昭和31年)文芸雑誌『新潮』 新潮 | 新潮社 3月号掲載の短編小説『処刑の部屋』(主役を含む登場人物は大学生)も然りである。これら作品における乾いた文体は、筆者に氏と同世代である大藪春彦(※1)氏の一連のハードボイルド作品を想起させる。
『太陽の季節』は文芸雑誌『文學界』 文學界 - 文藝春秋BOOKS 7月号に掲載され、第1回(1955年度)文學界新人賞を受賞。翌1956年(昭和31年)1月23日には、第34回(1955年下半期)芥川龍之介賞を当時最年少で受賞。単行本は1956年(昭和31年)3月15日に新潮社より刊行された。文庫版は新潮文庫で刊行されている。また、既成の秩序を無視して無軌道で奔放に行動する当時の若者達を揶揄し、「太陽族」なる流行語が生まれた。当時の「不良集団」像は、所謂「慎太郎刈り」にサングラス、アロハシャツ等の出で立ちをしたものであった。
さらに1956年(昭和31年)、日活株式会社より長門裕之氏、南田洋子氏主演で映画化もされている。また原作者・石原氏の弟、裕次郎氏(当時21歳)が脇役として出演(処女作)を果たしている。これを機に、『処刑の部屋』『狂った果実』をはじめとする所謂「太陽族映画」が相次いで制作、公開される。
(※1)大藪春彦:筆者も大学生時代(1980年代中盤)に耽読した代表作に『野獣死すべし』『蘇える金狼』『汚れた英雄』など、「角川春樹事務所」 株式会社 角川春樹事務所 - Kadokawa Haruki Corporation 製作等での映画化作品も耽嗜(たんし)
②昭和一桁世代と戦後民主主義教育の欺瞞
昭和一桁世代は戦中教育を真面(まとも)に受け、戦時中は学校で勉強もままならず勤労奉仕を強いられ、十代の多感な年代で敗戦を迎えている。世は、御国と天皇陛下の為に報いる「尽忠報国」(じんちゅうほうこく)の時代から米英を礼賛する「民主主義」の時代へ。社会の価値基準(価値観)が大転換する中で、同世代の心の混乱と痛手の大きさは計り知れない。またその後の人生にも大きな影響を及ぼしている。
戦時中「神国」日本は敵国「鬼畜米英」に必ず勝つと信じ、「英語」とは「敵国」の言葉であると教え込まれてきた。これが敗戦を境に突如として、米国・英国(連合国)が掲げる「自由」「人権」や「民主主義」は正義であるとのリベラル教育へ豹変する。そして英語は現在、Global Language として職場や教育の場で奉じられている。こうした状況に対して昭和一桁世代に、親や先生など上の世代や新聞メディアへの不信感が生じる。同世代が社会に出始めた昭和30年代に、前述の「太陽族」にみられる既成の秩序を無視して無軌道で奔放に行動する動きが台頭したのも頷ける。
『太陽の季節』で「戦後民主主義」の欺瞞を暴いた石原慎太郎氏はまた、著書『亡国の徒に問う』で「戦後民主主義」の迷走を述べている。(抜粋、下線・括弧内筆者) 国家論|理念・思想|石原慎太郎公式サイト「宣戦布告.net」
『我々だけがいたいけなほど一途に信じているもの、それも絶対の権威に近く錯覚しているさまざまなものについて見直してみる必要がある。曰くに、平和憲法、戦後民主主義、それにのっとった国内行政でのさまざまな悪しき平等主義、あるいは国連なるものの信憑性、日米関係、日中友好、自由貿易体制の実態などなど。気づいてみると我々はそれらのものへの一方的な思いこみにがんじがらめになったまま、この国の冷静な運営についてはなはだ自らを損なっている節が多々ある。』
③「士道」に依拠した三島由紀夫氏との対峙
三島由紀夫氏は1925年(大正14年)1月14日、東京市四谷区(現・東京都新宿区四谷)に誕生、石原氏より7歳年長の「戦中派」世代である。本名は平岡公威(ひらおかきみたけ)。自伝的作品でもある書き下ろし長編『仮面の告白』や、『潮騒』『金閣寺』など数多の代表作で知られる、戦後日本の文学界を代表する作家である。後年は政治的な傾向を強め自衛隊に体験入隊し、民兵組織「楯(たて)の会」を結成。1970年(昭和45年)11月25日、同会隊員4名と共に自衛隊市ヶ谷駐屯地(現・防衛省本省)を訪れ、憲法第9条(1項・2項)の削除を訴えて東部方面総監を監禁。バルコニーで自衛隊員にクーデターを促す演説の後に自決を遂げた(三島事件)。
半世紀を経て、中公文庫から2020年(令和2年)に発行された『三島由紀夫 石原慎太郎 全対話』は、1956年(昭和31年)から1969年(同44年)に行われた両作家による対話9編のすべてを第Ⅰ部「文学・思想」、第Ⅱ部「芸能・風俗」の2部構成で収録。これに1970年(同45年)の毎日新聞紙上での公開論争を第Ⅲ部として、1冊にしたものである。
「第Ⅰ部(天皇と現代日本の風土)」より抜粋(下線・括弧内筆者)
『【石原】しかし、どの程度のインティマシー(intimacy/親密性)をもった者が、さっきぼくが言った祭主になりうるかということですね。やはり祭主というものは、お祭りの時、奥の殿から目を見張るような白い衣装を着て出てこなくちゃならない。しかしなお期待され、すでに知られていないとね。
【三島】そうなんだよ。祭主ということなんだよ。結局断絶ということは、時代全体が空間的伝達によって動いている中で、時間的伝達をする人は一人しかない、それが天皇だという考え。そのために時間的伝達と空間的伝達とはクロスしない。はなれているんだ。そこで一人必ず時間的伝達をやってる人がいる。祭主なんです。祭主が神前で日本の伝統と連続性とに向い合ってるということだよ。だから天皇も国民とは接触しない方がいい。ただ皇太子がそれだけの孤立感にたえうる覚悟があるかという問題だね。』
「第Ⅲ部(士道について・政治と美について)」より抜粋(下線・括弧内筆者)
『【三島】私は貴兄のみでなく、世間全般に漂う風潮、内部批判ということをあたかも手柄のようにのびやかにやる風潮に怒っているのです。貴兄の言葉にも苦渋がなさすぎます。男子の言としては軽すぎます。昔の武士は、藩に不平があれば諌死(かんし)(※2)しました。さもなければ黙って耐えました。何ものかに属する、とはそういうことです。もともと自由な人間が、何ものかに属して、美しくなるか醜くなるかの境目は、この危うい一点にしかありません。
【石原】私が党につかえているのではなく、自民党が私に属しているのです。それ故に、政党は時代や情況に応じて、分裂もし合併もし、人間の入れ換わりが有り得ます。藩には、中央絶対権力のとり潰しでもない限り、そうしたメタモルフォルゼ(独:metamorphose/変化・変質)は有り得なかった。その政治工学的機能の違いをわきまえず、藩と政党を一緒くたにして「士節」を説く三島説は、たとえ現在の自民党に安心満足している政治家たちにとっても、尚迷惑なものでしかないでしょう。私も自ら選んで入党の際から、主取り(しゅうどり)する侍のように、自分の人生を今在る政党に預けたつもりは毛頭ありません。』
「あとがき(三島さん、懐かしい人)」より抜粋(下線・括弧内筆者)
『【石原】もともとのテーマは「男は何のために死ねるか」だった。それで、男の最高の美徳とは何かって話から始めようとしたら、彼が「ちょっと待て、入れ札しよう。君も紙に書いて出せ。俺も紙に書いて出すから」といって、札を出したら、その答えがまったく同じだった。「自己犠牲」(self-sacrifice)だったんだよ。そういうところは、ぴちっと合ったんだな。三島さんは、このときいろいろ気負っていたし、この対談を自分の対談集「尚武(しょうぶ)のこころ」に入れたとき、後記に「旧知の仲といふことにもよるが、相手の懐ろに飛び込みながら、匕首(あいくち)をひらめかせて、とことんまでお互ひの本質を露呈したこのやうな対談は、私の体験上もきはめて稀である」と書いている。それを読んだとき、奇異な感じがしたけど、その後、結局ああいう格好で亡くなったから、とても大事な対談だったと思います。』
総括すれば、両作家とも戦後文壇を主導した文学者・人気作家であり、保守(極右)の思想・価値観から國體の在り様を憂え政治領域での「行動」に身を投じた国士といえる。しかし三島氏は戦前日本の(あるいは古代から中世の美的様式を通じた)系譜を思想の根底に据え、文学者として「美」や「美徳」の追求にどこまでも純粋であろうとし、信ずる「理想」や「虚構」「観念」の世界で自身を昇華させた末「士道」に殉じた。これに対し石原氏は文学者としての本分を保ちつつも、戦後の国際的枠組みの変化や問題点を現実的に捉え、国会議員や東京都知事という清濁併せもつ「政治世界の実像」に身を置くことで、状況打開へ強か(したたか)に対処した「現実主義者」であったといえよう。
(※2)諌死:自らの死をもって目上の者や組織を諫める(いさめる)こと
※参考文献
石原慎太郎『日本よ、完全自立を』、2018年(平成30年)、文藝春秋
石原慎太郎『「NO」と言える日本:新日米関係の方策』、1989年(平成元年)、光文社
『三島由紀夫 石原慎太郎 全対話』、2020年(令和2年)、中央公論新社
保阪正康『昭和天皇(上下)』、2019年(令和元年)、朝日新聞出版
石原慎太郎公式ウェブサイト 石原慎太郎公式サイト
石原慎太郎『太陽の季節』(全5編『太陽の季節』『灰色の教室』『処刑の部屋』『ヨットと少年』『黒い水』)、1957年(昭和32年)、新潮社
石原慎太郎『弟』、1996年(平成8年)、幻冬舎
石原慎太郎『「私」という男の生涯』、2022年(令和4年)、幻冬舎