【第96回】Colonialism|Globalism と International Standardization《前篇》15~17世紀の大航海時代(Age of Discovery)スペイン・ポルトガル
⇧大阪港周遊観光クルーズ船「サンタマリア」、新大陸に到達した Cristoforo Colombo(クリストファー・コロンブス)の旗艦「La Santa María」から着想され、原形の約2倍の規模で建造
※本稿内容は筆者の個人的見解であり、筆者所属組織(現在および過去)の公式見解を示すものではありません。
本稿から連載形式で、欧米諸国が15世紀から現在にかけ根底に抱える「植民地主義」(Colonialism)と「Globalism」を取り上げる。またそれらに相通じる「国際標準化」(International Standardization)の考え方から「欧米史観」(Historical Perspective on the West)の洞察を試みる。
「大航海時代」(Age of Discovery|Age of Exploration)とは、15世紀から17世紀にかけ、当時の二大海洋国・スペインとポルトガルを中心とする西欧諸国が、大洋航海による探検「地理上の発見」を成し、これを契機に、北中南米大陸やアフリカ、アジアをはじめ世界各地に対し、征服行為(掠奪・殺戮・改宗・言語強制・植民など)による交易拡大を果たした時代をいう。そのため大航海時代はまた「地理上の発見時代」ともいわれる。しかしここには、欧州とキリスト教を世界の中心に置く歴史観が貫かれている。そしてこのことが、その後の米国(新大陸における白人中心国家)の成立(18世紀後半)、列強の「帝国主義」(Imperialism)の動き(19世紀~20世紀前半)へと続き、世界中の非白人地域に対する「植民地支配」(Colonial Rule)を正当化(Justification)する歴史につながった。
大航海時代は、イタリアの航海者、Cristoforo Colombo による大西洋横断航海と新大陸(カリブ海諸島)到達(1492年)、ポルトガルの探検家、Vasco da Gama による喜望峰(Cape of Good Hope)経由のインド航路発見(1498年)、またポルトガルの航海者、Fernão de Magalhães による世界周航(1522年)などが知られる。スペイン・ポルトガル両国は1494年の Tordesillas 条約と1529年の Zaragoza 条約によって、世界で新たに発見(征服)した領土の分割統治区分を定めた。彼らは Las Indias と呼ばれた新大陸(北中南米)で先住民を苛酷に使役し、金銀の資源を大量に収奪し、やがて奴隷貿易で調達したアフリカ大陸の黒人を労働力として連行した。16世紀末からはスペイン・ポルトガルに代わって英国、オランダ、フランスが海外進出において台頭し、17世紀半ばには英国とオランダが二大勢力として対立することとなる。
なお筆者の認識では、この植民地支配(Colonial Rule)側の対象からドイツ(およびドイツ系米国人)を除外したい。ドイツは神聖ローマ帝国(独:Heiliges Römisches Reich)(※1)の系譜を継ぐ、長い歴史を有する極めて卓越した民族・大国といえる。にもかかわらず、日本同様に領邦国家(独:Territorium)(※2)の権限が強かったため、中央集権体制と統一国家の形成が遅れた(19世紀後半)。そうした歴史の綾から、対外的な(有色人種の土地への)植民地獲得の動きは他の欧米諸国と比して極めて小さかったといえる。また20世紀に入っても、「帝国主義の先発国」対「後発国」の構図となった第一次世界大戦での敗戦に続き、第二次世界大戦における敗戦国として、これまた日本同様に、戦勝国(連合国)から Nuremberg 裁判において、一方的かつ徹底的に裁かれる立場にあった。あたかも出る杭が打たれるが如く、その卓越性故に国力を削がれたのである。剰え(あまつさえ)、米国・英国・フランス・ソビエト連邦の4ヶ国による「分割統治」と、この後生じた Ideology 陣営対立(自由主義社会 × 社会主義社会)の煽りを受け、1989年まで長らく続いた「東西分断」の悲劇を被っている。
(※1)神聖ローマ帝国:962年に「オットー1世」(独:Otto I)がローマ教皇から戴冠を受けドイツ王国を基盤に成立した帝国の呼称
(※2)領邦国家:皇帝権から独立して領邦内の主権を行使した三百有余の部分国家的な諸侯領

⇧「さかい利晶の杜」(さかいりしょうのもり) さかい利晶の杜 内、オランダの天文学者・地図製作者 Petrus Plancius による「球形世界図」(1594年)、「さかい利晶の杜」は大阪府堺市堺区宿院町西に所在の堺歴史文化観光施設
①Tordesillas 条約と Zaragoza 条約
1494年6月、スペインの Tordesillas でスペインとポルトガル間に結ばれた Tordesillas 条約により、アフリカ大陸西岸沖の Cabo Verde 諸島、西約1850km を通る子午線に境界線が引かれ、その東方がポルトガルの、西方がスペインの独占航海域(領土)とされた。この条約によって、対立関係にあった両国は当時の世界を二分し、新世界(北中南米・アジア・アフリカ)との交易を独占した。この条約は1529年に新たに Zaragoza 条約として改訂され、Tordesillas 条約の境界線の適用は大西洋に限るとされた。Zaragoza 条約では、インドネシア東部の Moluccas 諸島、東約1800km近くを通る子午線が第2の境界線とされた。これによりスペインの新大陸における優位、またポルトガルのアジアにおける優位が決定的となった。やがて16世紀後半以降、オランダ・英国・フランスの海洋進出により、スペイン・ポルトガルは制海権を失っていき、この境界線は有名無実化していった。
保守政治家の石原慎太郎氏はかつて、その公式ウェブサイト 歴史の蓋然性について ー白人世界支配は終わったー|コラム|石原慎太郎公式サイト | 宣戦布告.net 上で、大航海時代における根底的かつ歴史的事実を痛烈に問うている。(抜粋、下線筆者)
暗黒の時代といわれた中世紀には主にはヨーロッパが獲得した三つの新しい技術、火薬、印刷術、そしてアラブ人から伝授された大洋を渡る航海技術によって終焉しました。新しい文明の所産である新しい技術が古い文明を駆逐してしまうという歴史の力学を世界中で展開したのです。その典型はスペイン人が持ち込んだわずか三丁の鉄砲があの古くて由緒あるインカ大帝国をあっという間に滅してしまったという歴史の悲劇にうかがえます。そしてその悲劇はイスラム教徒を含む他の殆どの有色民族に及んだのです。それこそが中世紀以後人間の歴史の本流の姿に他なりません。つまり中世期以後の歴史の本流はキリスト教圏の白人、つまりヨーロッパの白人による、他のほとんど全ての有色人種の土地への一方的な侵略と植民地化と収奪による白人の繁栄の歴史でした。アフリカや中東、或いは東南アジアの全ての地域は西欧諸国の進出によって国境は区分され植民地化され一方的な隷属を強いられてきたのです。それはまぎれもない事実であり歴史における現実でした。バチカンに関する資料にもありますが過去のある時点でキリスト教の本山のバチカンで白人以外の有色人種は人間か動物かという議論が本気でなされたとこもある。ある法王は彼等がキリスト教に改めたら人間とみなすと宣言したそうな。またある法王は世界中の未開地を白人の領地として線引きしました。それによるとこの日本は近畿地方から北はスペイン南の部分はポルトガルのものとすると勝手に国境の線引をしています。白人の奢りもいいとこだ。
②中南米 古代文明の征服と「降伏勧告状」(Requerimiento)
16世紀から17世紀にかけ、スペイン王室から中南米大陸に送り込まれた「征服者」(Conquistador)たちは、先住民に比べ少数の兵力でありながら火器と騎兵で武装し、古代より長く繁栄してきた数多の文明(帝国)を征服した。この征服行為ではキリスト教の布教と被征服地の文明化が大義名分にされただけでなく、本国(旧大陸)からもちこんだ疫病(天然痘)が新大陸に広がり、その人口を急激に減少させた。この結果、1521年にアステカ(Azteca)、1532年にインカ(Inca)、1697年(最終的に滅亡した年)にマヤ(Maya)といった諸文明(帝国)を滅亡に追いやった。
スペイン人の征服者は、教皇や国王が定めた「降伏勧告状」(Requerimiento)により自らの行為を正当化した。これはローマ教皇から(聖書に基づき)当地支配を認められたスペイン国王に服従する様、先住民に対して勧告することで、それに従わない先住民に対していかなる害を加えても正当化(Justification)されるというものであった。以下はカトリック司祭 Bartolomé de las Casas の『インディアスの破壊についての簡潔な報告』(原題:Brevísima relación de la destrucción de las Indias)(訳・染田秀藤氏)(p.46-49)の訳注である。(下線筆者)
1512年に開催されたブルゴス会議において、植民者スペイン人と被植民者インディオとの関係や征服の正当性について審議され、その結果、最初のインディアス関係の植民法である「ブルゴス法」が制定された(1512年12月27日)。この時、インディオ擁護派のドミニコ会士たちが不正な征服戦争を中止させる勅令が発布されるまで新しい遠征隊の派遣を停止するよう要求したため、アラゴンの国王フェルナンド(カスティーリャの摂政)は審議会を招集し、いかにすれば征服が正当となるかを検討させた。その結果、当時最も権威ある法学者と言われたフワン・ロペス・デ・パラシオス・ルビオスが征服を法的に正当化するための文書を作成した(1513年)。それが催告(レケリミエント)と呼ばれる文書である。催告(レケリミエント)は聖書に従って世界の創造を説き、キリストがすべての人々の上に聖ペテロをおかれたといい、さらに、世界の支配者であるローマ教皇アレクサンデル6世がインディアスをスペインの国王に与えられた経緯を述べる。征服者(コンキスタドール)は世界の至上の権威者である教会とローマ教皇、それにインディアスの支配者としてのスペインの国王についてインディオに知らせ、服従するよう説得し、そして、インディオにそれを理解させ、審議させるための時間を与えなければならなかった。もしインディオが服従しなかったり、故意に決定を延ばそうとすれば、スペイン人はインディオの領土に侵入し、彼らを捕らえ、財産や土地を奪い、できる限りの害を加えることができると催告(レケリミエント)は述べている。
③スペイン・ポルトガルと戦国期日本(秀吉・家康の外交姿勢)
(執筆中)
前述の Zaragoza 条約で引かれた境界線、すなわちインドネシア東部の Moluccas 諸島、東約1800km近くを通る子午線上の、まさに特筆すべき極東の座標に日本列島が位置した。16世紀後半から17世紀前半(大航海時代後半)、スペイン・ポルトガルなど南蛮(欧州)勢力によるキリスト教の布教活動と一体化した征服行為に対し当時の日本は敢然として抗い、豊臣政権による朝鮮出兵でこれに威を示し、後継の徳川幕府の鎖国政策と禁教令によってこれを防いだ。
東北大学名誉教授で歴史学者の平川新(ひらかわ・あらた)氏の著書『』によれば、豊臣秀吉公は朝鮮出兵の前後に、スペインのフィリピン総督に対して服属要求の書簡を送っている。また、インド・ゴアのポルトガル副王に対してもキリスト教禁止を通知している。さらに両者に対して「明国征服」の野望も伝えている。すなわち、秀吉公の朝鮮出兵は、スペイン・ポルトガルによる世界征服への牽制の現われだったとみている。スペインはこうした秀吉公の毅然とした外交姿勢や、欧州を凌駕した戦国期日本の軍事力、徹底したキリスト教禁教政策に少なからぬ恐れを抱き、植民地化に至らなかったとしている。
また徳川家康公は、メキシコ副王宛の返書の中で「わが邦は神国なり」との文言を用いている。この文言は秀吉公も述べていたとし、「神国」思想自体はもともと日本に存在しているが、対外関係の中でキリスト教と対置する形で位置づけ直されたとする。すなわち、「キリスト教の布教=スペインの脅威」を排除する理由として「神国」論が再定義されたとみる。
同氏はさらに、同著の序章<戦国日本から「帝国」日本へ>において、江戸時代の鎖国政策について次のような能動的な意味合いを持たせている。(下線筆者)
これまで江戸時代のいわゆる鎖国は、日本の閉じこもり型外交としてネガティブに評価されてきた。しかし鎖国にいたる歴史展開をみれば、強大な軍事力を有していたがゆえにヨーロッパ列強をも日本主導の管理貿易下におくことができた、ということが明瞭に浮かび上がってくる。弱くて臆病だから鎖国、ではなく、強かったから貿易統制や入国管理を可能にしたのであった。それが、のちに鎖国と呼ばれた体制であった。つまり強かったから鎖国、なのである。
筆者はここに、現在の米国 Trump 政権の進める関税・保護貿易と移民管理政策との共通点をみる。

⇧「さかい利晶の杜」(さかいりしょうのもり) さかい利晶の杜 内、ポルトガルの地図製作者 Luís Teixeira による「日本図」(1595年)

⇧「さかい利晶の杜」(さかいりしょうのもり) さかい利晶の杜 内、1600年(慶長5年)豊後国(現・大分県)に漂着したオランダ商船「リーフデ号」(De Liefde)の縮小模型展示
※参考文献
平川新『』、中央公論新社、2018年
三谷郁也『白人侵略 最後の獲物は日本 ─なぜ征服されなかったのか 一気に読める500年通史』、ハート出版、2021年






