【第21回】東京・日本橋紀行《1/4》序文―「日本橋室町」篇―
※本稿の内容は筆者の個人的見解であり、筆者が所属する組織の公式見解を示すものではありません。
依然厳しい蒸し暑さの残る8月下旬、東京都中央区は「日本橋」(にほんばし)地区を訪れ、「日本銀行本店」周辺、「東京証券取引所」周辺(兜町)、「日本橋髙島屋」周辺を中心に見聞を広めました。
天下人(てんかびと)、関白「豊臣秀吉公」による国替えの命に端を発した「徳川家康公」の江戸入府以降、明治維新を経て日本最大級のオフィス街に発展した「東京駅」周辺は、駅舎西側(皇居側)の「丸の内」「大手町」に代表される一帯(千代田区)と、東側(北東部)の「日本橋」「八重洲」に代表される一帯(中央区)に大別されます。現在の「丸の内」「大手町」一帯が、明治期以降に新興の「三菱財閥」により開発・整備が進められ「三菱村」と称されるのに対し、「日本橋」は江戸期より豪商の「三井家」(財閥)との所縁(ゆかり)が深く「三井村」と称されています。
⇧「日本銀行本店」前に設置の「中央区エリアマップ」
「日本橋」地区にはその地名の由来である橋「日本橋」は勿論、「本石町」(ほんごくちょう)の「日本銀行本店」や「室町」(むろまち)の「三井本館(三井財閥の本拠地)」「日本橋三越本店」、また「日本橋川」を挟んで「兜町」(かぶとちょう)の「東京証券取引所」「みずほ銀行兜町支店」(元:第一国立銀行)、さらに「日本橋郵便局」「日本橋髙島屋」など、我が国の近代史を代表する金融機関や老舗百貨店が建ち並び、それらのほとんどは、国の重要文化財に指定された歴史的建築物でもあります。
⇧「日本橋」遠景(写真左)、「麒麟(きりん/Qilin)像」(写真右上)と「東京市道路元標/日本国道路元標」(写真右下)
「日本橋」は「徳川家康公」の江戸開府にあたる1603年(慶長8年)に架けられたのが最初で、現在のものは1911年(明治44年)に完成した20代目にあたり、1999年(平成11年)に国の重要文化財に指定されています。高欄中央部、青銅製の照明灯を飾る4体の「麒麟像」は彫刻家「渡辺長男(おさお)氏」による制作です。「麒麟」は中国の伝説上の神聖な動物(霊獣)とされ、特に「日本橋」のそれには、翼の様な背鰭(せびれ)が備わっています。
「日本橋川」上の「空」を覆い隠す「首都高速道路」の高架橋は、1964年(昭和39年)東京オリンピック開催に向かう高度経済成長期に架設されたもので、道路用地確保と建設効率を優先した当時の価値観を体現しており、江戸情緒を残す都市景観を毀損(きそん)する様(さま)は、大阪人である筆者にとっても遺憾に堪えません。(現在、「首都高速道路」の地下化計画も検討されています)
⇧日本橋北詰に建つ「日本橋魚市場発祥の地」記念碑と「乙姫」像
かつて日本橋川沿いには、一日に千両の取引があるといわれた巨大な「魚河岸」(うおがし)がありましたが、1923年(大正12年)の関東大震災による焼失を機に築地市場へと移転。日本橋での300年余りの歴史に幕を下ろしました。「乙姫」像は、「龍宮城」の住人である海の魚が日本橋に集まったとの意味が込められたものです。(龍宮伝説)
⇧日本橋北詰交差点に位置する「スルガ銀行 東京支店」外壁の「日本橋駿河町由来記」(「日本橋 魚河岸」と「両替商の街 駿河町」についての案内)
⇧日本橋地区の「顔」である「日本橋三越本店/本館」は日本の百貨店の始まりとされ、同建築は2016年(平成28年)に国の重要文化財に指定、一対のライオン像が守護する正面玄関(ライオン口)は待ち合わせ場所や合格祈願の逸話で有名
⇧店内正面眼前に広がる吹き抜け(atrium)の豪華絢爛な装飾空間と、そこにそびえ立つ極彩色の巨大木造彫刻「天女(まごころ)像」、1960年(昭和35年)、彫刻家「佐藤玄々(さとうげんげん)氏」制作、(天女(まごころ)像 | 日本橋三越本店 | 三越 店舗情報 (mistore.jp))
⇧「天女(まごころ)像」奥、「三越」歴史関連の展示コーナー
⇧「日本橋北詰交差点」に位置する「日本橋三越本店/新館」入口の佇まい(たたずまい)、「三越」は関西発祥の「髙島屋」と並んで呉服店が祖業
同社は1673年(延宝元年)、「三井家」家祖の「三井高利(たかとし)公」が、江戸本町一丁目(現在の「日本銀行本店」辺り)に「三井越後屋(ゑちごや)呉服店」を開業したのに始まります。明治に入り、同店を「大元方」(おおもとかた/三井全事業の統括機関)の所管事業から切り離した上で新たに「三越家」が興され、「三井家」が「三越家」へ呉服業を譲渡する形で分離独立。「三越」の2文字は三井の「三」と越後屋の「越」の字に由来します。1874年(明治7年)、日本橋駿河町に「三越家」経営の越後屋が新たに開店。その後「三越呉服店」の名称を経て1928年(昭和3年)に「三越」の名称となりました。「日本橋北詰交差点」界隈で「老舗(しにせ)百貨店」の存在感は今なお健在に映ります。
※出典
「三井広報委員会」(越後屋誕生と高利の新商法 | 三井広報委員会 (mitsuipr.com))
(呉服業の終焉と三越の始まり | 三井広報委員会 (mitsuipr.com))
⇧<参考>「銀座三越」ライオン像と「銀座4丁目交差点」の様子、2017年(平成29年)8月撮影
「徳川家康公」による江戸入府以降、開発・整備が大きく進んだ東京(江戸)には、大阪(大坂)や京都(京)をはじめとした関西/西日本地域と同じ地名、あるいはそれらを由来とするものが多く残っており、主に以下の例がみられます。
<日本橋>大阪の日本橋は呼称が「にっぽんばし」であるのに対し、東京のそれは「にほんばし」。
<京橋>大阪、東京、いずれもが「京へ通じる起点の橋」の意味で命名。
<室町>京都の「室町」(足利幕府、三代将軍の義満公が御所を構えた地)に倣って(ならって)命名されたとする説など。
<佃島>摂津国、西成郡「佃村」(現在の大阪市西淀川区佃町)の名主、「森孫右衛門」一族と配下の漁民が、「徳川家康公」の命により江戸に移住し、隅田川河口の干潟を拝領、埋め立てた孤島を造成してのちに「佃島」と命名。「日本橋 魚河岸」のはじまりで、佃煮発祥の地。
<住吉>上記の由来に関連して、摂津「佃村」の「住吉の社(田蓑神社)」から分霊し、「佃島」に「佃 住吉神社」(住吉神社オフィシャルサイト | 由緒 (sumiyoshijinja.or.jp))を創建したことに因みます。
(【第22回】へ続く)