【第19回】千思万考「伝統的価値観」(Traditional Values)《其ノ一》―令和社会の違和感と時代精神(Zeitgeist)の受容―
※本稿の内容は筆者の個人的見解であり、筆者が所属する組織の公式見解を示すものではありません。
⇧写真は、「髙島屋大阪店」ウインドー内に設置の「ファミリー」記念像、富永直樹氏制作
総務省統計局の「人口推計/2024年(令和6年)7月報(概算値)」(202407.pdf (stat.go.jp))によると、日本の総人口は1億2396万人、そのうち「平成」生まれの世代(0~35歳)は3859万人(同統計の「0~34歳」値で算出)と、総人口比で31.1%を占めるに至っています。このことから、同世代(集団)が日本社会において一定の存在感や影響力を有する事実に、隔世の感を覚えます。
⇩上記統計を基に筆者作成
「時代精神」(※1)とは、ある時代において「支配的」で「普遍的」と捉えられていた、社会全体に共有される「精神的傾向」を指し、「同調圧力」(Conformity Pressure)とも換言できます。特に「歴史学」においてそれは、後世の価値観からは「非合理的」で「不適切」と映り、また大きな違和感を伴う側面があります。<参考>「ヘリテージ財団」(The Heritage Foundation)ウェブサイト(Political Correctness and the Suicide of the Intellect | The Heritage Foundation)「令和」の世はその幕開けから、社会が新型コロナウイルス感染拡大対応に伴う「閉塞感」(対面交流や外出・消費等の自粛、在宅勤務やマスク着用等の圧力など)に覆われました。本稿では、筆者が違和感を覚えざるを得ない昨今の社会状況と「時代精神」の受容について、複数の角度から考察します。
①筆者が幼少期から子供時代を過ごした1970年代は、60年余もの年月を刻んだ長い「昭和」期の中でも終盤にあたり、戦後(大東亜戦争)の「高度経済成長」の中、社会全体に「おおらか」で物事に「寛容な」精神が残っていた「古き良き」時代として回顧されます。また家庭では三世代が同居する「大家族」の、職場では「終身雇用」「年功序列」の(ここでも大家族的な)枠組みが十分に機能していた最後の時代であったと言えましょう。(そうした中で「公民権運動」がこの時期から一般化)
②翻って「平成」期以降(特に2010年代より顕著化)、兎角(とかく)物事が「善悪二元論」で割り切られ、「政治的適正性」(Political Correctness)の跋扈(ばっこ)とこれに伴う「同調圧力」が年を追うごとに社会状況を複雑化させています。これは、立法、行政、司法に次ぐ「第4の権力」と呼ばれるメディア(報道機関)による増幅の側面が大きいと思われます。「多様性」(diversity)や「平等」(equality)など、「社会的正義」や「潔癖性」を過度に尊重する社会状況は、ある種の「息苦しさ」や「窮屈さ」を伴い「功罪」相半ばするものに感じられます。裏を返せば「昭和」期の社会は「陽」一極に囚われず「陰陽」「中庸」の概念に立脚し、ある種の「懐の深さ」や清濁併せ呑む「器量」を「暗黙知」として有していたと回顧されます。「陰陽」(Yin and Yang)とはすなわち、万物は「陰陽両極」に立っており、「陰陽互根」(陰・陽の互いの存在で己が成り立つ)また「陰陽可分」(陰中の陽、陽中の陰、という状態がある)であるとするものです。
③「科学技術」領域についてみると、長い人類史における過去の時代と比較した際、この半世紀の「進歩」の速度は驚異的であります。特に各産業分野(軍需利用を含む)における「IT 化」「デジタル化」「電子化」など「情報技術」の発展と普及は目覚ましく、社会がその受け入れを拒否できないほどの強制力や不可逆性を有しています。一方で「政治」「経済」「文化」などの領域は各時代状況によって、さながら振り子の様に短い周期で、相対的に進歩/後退(上昇/下降)もしくは左・右に振れこそすれ、絶対的な「変化」や「進歩」を生むものとは性質の異なる、ある種の「普遍性」を保つものに思われます。
④他方、「信仰心」や「愛国心」また昨今喧しい(かまびすしい)「性差」(gender)の問題など、「社会思想」領域の状況は「平成」期以降の長い周期で大幅に「後退」している様に感じられます。これには1990年代頃(平成期)より普及した「インターネット」や近年の「携帯情報端末/スマートフォン等」の利用がもたらす「情報洪水」が、家庭や職場における人間関係を根源的に「希薄化」させている側面があります。また昨今では「効率性追求」の名の下に席巻する「人工知能」(AI:Artificial Intelligence)によって、労働環境上の懸念や知的財産権上の問題が浮上しています。さらに SNS(Social Networking Service)の利用においては、他者への人間的配慮を欠く投稿が社会問題として年々拡大しています。近年筆者の最も憂うところは、社会生活における「携帯情報端末/スマートフォン等」(「生身の人間」を介さない、端末上で得られる「情報」)への「盲従」が、洋の東西・老若男女を問わず、もはや忌避すべき陋習(ろうしゅう)の域に達している点です。
⑤「ビジネス環境」(主に大手企業の事務職)においては、「昭和」の価値観からはあまりに「無粋」(ぶすい)で「狭量」(きょうりょう)に映る harassment 問題(主流派大手メディアによる報道)に忌避感と疲弊が増す中、昭和期にあった「おおらか」で「寛容な」人間関係を削ぎ落し「無味乾燥」な方向に向かっている様に思われます。この harassment 問題は、Political Correctness の「代名詞」として最たるものといえます。2000年代以降は、「服装規定の大幅緩和」(軽装の通年許容)や「対等意識の推奨」(役職呼称や固定席の廃止)が定着しています。昨今では「働き方改革」や DX(Digital Transformation)の名の下に、新型コロナウイルス感染拡大への対処策(特別措置)に端を発する「勤務地選択の自由化」(在宅勤務の奨励)が常態化。この様に我が国の労働環境は従来からの「秩序」が崩壊し、「多様性」(diversity)に対して際限なく寛容な方向に流されている様に思われます。
【後日追記】『米企業に「出社強制」の波』 2024年(令和6年)9月22日付、日本経済新聞(朝刊)より
本年に入り、米国企業における「働き方」がようやく「原則、出社」に回帰しつつあります。日本経済新聞社の調査によると、IT大手の Amazon.com, Inc. や IBM(International Business Machines Corporation)、また流通大手の Walmart Inc. や金融大手の Bank of America Corporation など、主要100社のうち58社で「週3日乃至(ないし)5日の出社」を義務付ける発表が目立ちます。さらにはこれに拒否・違反した場合の懲戒処分も課されるなど、その方向性は堅固なものとなりつつあります。生産性や倫理の低下がみられた「(多様な)働き方」をコロナ禍前の状態に戻したい「経営側の本意」が率直に表明され出すとともに、「働く(実社会と関わる)ことの本質」へと立ち戻る「潮目の変化」が窺えます。
⑥こうした状況を(西側民主主義国の)「国際潮流」として捉えると、「多様性」(diversity)や「平等」(equality)また「グローバル化」(globalization)等を免罪符に、「個人の自由」の過度な尊重と「社会秩序」の崩壊、また「社会的弱者・少数者の有り様」を含んだ「伝統的価値観」の縮退を感じます。同時に、この数十年間の長い周期における国際政治の力学、すなわち政治社会思想における「リベラル」(liberalism)の拡大と「保守」(conservatism)の縮退、また Political Correctness の際限なき跋扈が感じ取れます。そしてこれらの潮流は往々にして「二重規範」(double standard)を生じつつ、不可逆的に進行している様に思われます。
⑦これに関係するものとして「母国語教育(政策)」は、国家主権や「国体」(國體/国家体制)護持の要諦に関わります。「日本語の乱用・違和感」(憫然たる誤用、過度の省略・短縮、冗長表現、語尾伸ばし、稚拙化等)、また「外来語の誤用・多用」(日本独自の創作である「和製外国語」や、外国語のカタカナ表記による「カタカナ語」、特に原語の不適切な形での省略・短縮)が問われて久しくなります。時代を経るごとにその状況は深刻化・全世代化し、一定の節目で国家としての指針策定や是正が図られる必要性を感じます。昨今の日本語の乱用に対して強い違和感(incongruity)を筆者が覚える中、ここでは「外来語の誤用・多用」の問題について触れます。他国文化の理解や外国語の習得など本来の趣旨から外れ、「表語(表意)文字」(ideogram)である日本語(漢字)から「表音文字」(phonogram)の英語等(適切とは言い難い「和製外国語」「カタカナ語」)へ、さらには alphabet の羅列である「略語」(abbreviation)「頭字語」(acronym)などへの過度な置き換えが、主流派大手メディアを含む社会のあらゆる領域で蔓延しています。昨今ではもはや日本語としての体を成さず、言葉の持つ「意味」や「本質」が耳障りの良い「美辞麗句」(flowery words)で覆い隠された感すら覚えます。同時にこれが、日本人の「英会話」(原語で聞き、話す能力)の上達を阻んでいる要因でもあろうと考えます。
フランス人貴族の政治思想家 Alexis de Tocqueville 氏は、その著書『De la démocratie en Amérique(アメリカの民主政治)』の中で、「民主主義」とは「多数者の専制」(Tyranny of the Majority)であると説いています。すなわち、「民主主義」は多数派の「世論」による専制政治であると断じ、少数派の意見が排除され、大勢に順応し沈黙することを強いられる、社会の「同調圧力」であると指摘しました。しかし、多数派の意見が少数派のそれより常に優れ、また「正論」であるとは限らず、むしろ「正論」は概して少数派から発せられるものかもしれません。
千思万考するに古今東西、それぞれの社会において共有された「価値観」や「時代精神」(Zeitgeist)が存在し、後世においてもそれらは「善悪の彼岸」(Jenseits von Gut und Böse)(※2)で受けとめられるべきと思われます。諸事兎角(とかく)、「改革」「変化」を是として「多様性」の喚起に喧しい(かまびすしい)昨今、「守旧」「護持」の選択肢や「緩んだ(ゆるんだ)箍(たが)を締める」観点も時として肝要であろうと思われます。また行き過ぎた「平等」の追及は「悪平等」と化し、個々の特性や適性に叶った「公平」に眼目が置かれるべきと思われます。
平和に慣れた「元禄」の世に民(たみ)を大いに惑わせた『生類憐みの令(しょうるいあわれみのれい)』、1920年代に米国で施行された飲用アルコールの製造・販売等を禁止した『禁酒法』(Prohibition)、こうした事例が頭を過り(よぎり)ます。「リベラル」(liberalism)も「政治的適正性」(Political Correctness)も行き着くところ、一事が万事『過猶不及(過ぎたるは猶及ばざるが如し)』。「昭和」の御代が終焉し「平成」の30年を経て世はすでに「令和」。ある種の「過保護」環境ともいえる社会の中核を占め始めた若い世代へ、こうした認識が受容されんことを願います。『白河(しらかわ)の 清きに魚(うお)も 棲み(すみ)かねて 元の濁り(にごり)の 田沼(たぬま)恋しき』
(※1)時代精神:ドイツ人哲学者 Johann Gottfried von Herder 氏、Georg Wilhelm Friedrich Hegel 氏、Wilhelm Christian Ludwig Dilthey 氏らにより提唱され深められた概念
(※2)善悪の彼岸:ドイツ人哲学者 Friedrich Nietzsche(ニーチェ)氏による1886年刊行の著書、既存のキリスト教的道徳性を批判し、善悪を超えた領域に立脚することを提唱
【後日追記】「日本電信電話株式会社」の澤田純会長は、2023年(令和5年)7月「一般社団法人京都哲学研究所」(京都哲学研究所 (k-philo.org))の設立を主導。「日経ビジネス」2024年(令和6年)10月21日号、新連載「禅と哲学」における同会長インタビューの中で、「会社のパーパスとは価値観であり、価値観を創っていくのが哲学。一段深いところに降りることが大切。」と唱えています。
※参考文献
『アメリカにおけるデモクラシーについて』、Alexis de Tocqueville、岩永健吉郎(訳)、2015年(平成27年)、中公クラシックス
『パラコンシステント・ワールド―次世代通信 IOWN と描く、生命と IT の<あいだ>』、澤田純、2021年(令和3年)、NTT 出版
『現代アメリカ保守主義運動小史』(原題:A brief history of the modern American conservative movement)、2008年(平成20年)、Lee Edwards 、渡邉稔(訳)、明成社
『Leading the Way: The Story of Ed Feulner and the Heritage Foundation』, 2013, Lee Edwards