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時論

⇧写真は、「髙島屋大阪店」ウインドー内に設置の「ファミリー」記念像、富永直樹氏制作

※本稿の内容は筆者の個人的見解であり、筆者が所属する組織の公式見解を示すものではありません。

①令和の世と時代精神(Zeitgeist)の受容

総務省統計局の「人口推計/2024年(令和6年)7月報(概算値)」(202407.pdf (stat.go.jp))によると、日本の総人口は1億2396万人、そのうち「平成」生まれの世代(0~35歳)は3859万人(同統計の「0~34歳」値で算出)と、総人口比で31.1%を占めるに至る。筆者は新入社員の時期に、大東亜戦争(対米戦争)の戦前・戦中派およびその下の団塊世代といった、上の世代から「新人類」(所謂バブル期における理解不能の若年層)と呼ばれた世代。そうした筆者から見ても違和感を覚えざるを得ない「平成」世代(集団)が、日本社会において早や一定の存在感や影響力を有する事実に隔世の感を覚える。

⇩上記統計を基に筆者作成

「時代精神」(※1)とは、ある時代において「支配的」で「普遍的」と捉えられていた、社会全体に共有される「精神的傾向」を指し、「同調圧力」(Conformity Pressure)とも換言できる。特に「歴史学」においてそれは、後世の価値観からは「非合理的」で「不適切」と映り、また大きな違和感を伴う側面がある。<参考>「ヘリテージ財団」(The Heritage Foundation)ウェブサイト(Political Correctness and the Suicide of the Intellect | The Heritage Foundation)「令和」の世はその幕開けから、社会が新型コロナウイルス感染拡大対応に伴う「閉塞感」(対面交流や外出・消費等の自粛、在宅勤務やマスク着用等)に覆われた。本稿では、筆者が違和感(Incongruity)を覚えざるを得ない、過度な「多様性」尊重に同調する昨今の社会状況と「時代精神」の受容について、以下複数の領域から考察する。

1.「文化思想」の領域―Political Correctness の跋扈と同調圧力
2.「政治・軍事・経済」の領域―民主主義は絶えず揺れ動くも目的地なきもの
3.「科学技術」の領域―急速なデジタル化と Smartphone 依存による負の側面 
4.「ビジネス環境」の領域―Harassment の喧騒と弛緩し続ける労働環境
5.「国際潮流」の領域―リベラルの拡大と Political Correctness
6.「母国語教育」の領域―歯止めなき日本語の誤用と外来語の濫用

(※1)時代精神:ドイツ人哲学者 Johann Gottfried von HerderGeorg Wilhelm Friedrich HegelWilhelm Christian Ludwig Diltheyらにより提唱され深められた概念

②「多様性」(Diversity)同調社会への違和感

1.まず、「信仰心」や「愛国心」また昨今喧しい(かまびすしい)「性差」(Gender)の問題など、「文化思想」領域の状況から取り上げる。筆者が幼少期から子供時代を過ごした1970年代は、60年余もの年月を刻んだ長い「昭和」期の中でも終盤にあたり、大東亜戦争(対米戦争)後の混乱期を経た「高度経済成長」の中、社会全体に「おおらか」で物事に「寛容な」精神が残っていた「古き良き時代」として回顧される。また家庭では三世代が同居する「大家族」の、職場では「終身雇用」「年功序列」の(ここでも大家族的な)枠組みが十分に機能していた最後の時代であったと言えよう。(そうした中で、1950年代から1960年代に米国で興った「公民権運動」がこの時期から我が国でも一般化)

翻って「平成」期以降(特に2010年代より顕著化)、兎角(とかく)物事が「善悪二元論」で割り切られ、「政治的適正性」(Political Correctness)の跋扈(ばっこ)とこれに伴う「同調圧力」が年を追うごとに社会状況を複雑化させている。これは、立法、行政、司法に次ぐ「第4の権力」と呼ばれるメディア(報道機関)による増幅の側面が大きいと思われる。「多様性」(Diversity)や「平等」(Equality)など、「社会的正義」や「潔癖性」を過度に尊重する社会状況は、ある種の「息苦しさ」や「窮屈さ」を伴い「功罪」相半ばするものに感じられる。裏を返せば「昭和」期の社会は「陽」一極に囚われず「陰陽」「中庸」の概念に立脚し、ある種の「懐の深さ」や清濁併せ呑む「器量」を「暗黙知」として有していたと回顧される。「陰陽」Yin and Yang)とはすなわち、万物は「陰陽両極」に立っており、「陰陽互根」(陰・陽の互いの存在で己が成り立つ)また「陰陽可分」(陰中の陽、陽中の陰、という状態がある)であるとするもの。この様に「文化思想」領域では、「平成」期以降の長い周期で大幅に「弛緩」している様に感じられる。

2.次に「政治」の領域(近代社会では「民主主義」と同義)は常に「不安定」な状態であり、さながら振り子の様に短い周期で、相対的にその都度「右」へ「左」へと揺り動かされる。社会は「変化」(Change)し「改革」(Reform)されるものの先には進んでおらず、「進歩」(Progress)という観念は意味をなさない様に思われる。京都大学名誉教授で社会思想家の佐伯啓思(さえきけいし)氏は、その著書『さらば、民主主義―憲法と日本社会を問いなおす』の序章で、英国の政治哲学者 Michael Joseph Oakeshott 氏による、「政治」を航海に見立てた思想を引き合いに出している。『海原は底知れず、果てしない。停泊できる港もなければ、出航地も目的地もない。その企ては、ただ船を水平に保って浮かび続けることである。』

また「軍事」についても、歴史的な時代状況や国際情勢、経済情勢などによって、国家間、地域間の「同盟関係」や「対立構造」が変化し得る。それはあたかも「昨日の敵は今日の友」といった感がある。そして「経済」の領域も、さながら振り子の様に短い周期で、相対的に進歩/後退(景気の浮揚/減速)を繰り返せども、絶対的な「変化」や「進歩」を生み出すものとは性質の異なる、ある種の「普遍性」を保つものに思われる。

3.「科学技術」領域についてみると、長い人類史における過去の時代と比較した際、この半世紀の「進歩」の速度は驚異的である。特に各産業分野(軍需利用を含む)における「IT:Information Technology」(情報技術)の発展と普及は目覚ましく、社会がその受け入れを拒否できないほどの強制力や不可逆性を有している。一方で「科学技術」は多大な弊害も社会へもたらしてきた。とりわけ急速に際限なく推し進められる「アナログ」から「デジタル」への移行、すなわち1990年代頃(平成期)より普及した「インターネット」や近年の Smartphone(等の携帯情報端末)の利用がもたらす負の側面は看過できない。また昨今では「効率性追求」の名の下に席巻する「人工知能」(AI:Artificial Intelligence)によって、労働環境上の懸念や知的財産権上の問題が浮上している。

さらに SNSSocial Networking Service)の歯止めなき利用拡大は、さながら現代の「落書」(らくしょ)の温床となりえる。そこでは不特定多数の「私的」な感情や利益が充満し、絶えざる不満を生み出す。また利用者の「承認欲求」(※2)の充足に駆り立てる、典型的な「衆愚政治」の舞台と言えよう。

筆者が近年、最も忌避し(時間を遡り)昭和期へ逃避したいとさえ感ずる社会事象は、洋の東西・老若男女を問わない Smartphone(等の携帯情報端末)への過度依存(平たい表現で「中毒」)である。この状況は「携帯電話」の一般普及後、約30年間を経て、もはや「Pandemic」(世界的伝染病)の域にあると言えよう。(以下は筆者が考える負の側面、特に二次的弊害を憂慮)

【一次的弊害】(私的要素・ソフト面)
・携帯端末上で(時や場所や状況を憚らず)得られる、過剰なまでの「情報」への盲従・隷従
・また逆に(時や場所や状況を憚らず)過剰なまでの情報が得られる、「携帯端末」への盲従・隷従=四六時中の玩弄(がんろう)
・上記に伴う、自身の頭脳による判断・思考を停止してしまう危険性
・さらに「生身の人間」である他者(特に両親や祖父母などの家族・血縁者や、職場の上位階級者)との知的・精神的交流の断絶、人間関係の希薄化

【二次的弊害】(公共空間・ハード面)
・所謂「ながら歩行」「ながら運転(自転車・自動車等)」=「視覚遮断」「注意散漫」による本人の人身事故誘発
・上記に伴う、公道・電車(等の交通機関)・エレベーター等での他者への悪影響(通行・移動の妨げ)
・さらに交差点(横断歩道)等での交通渋滞の誘発(歩行者優先に伴う車両運転者への悪影響)
⦿四六時中、極小の液晶画面を凝視し、周囲の状況に無配慮で傍若無人な、Smartphone 依存者により毀損される「風景」「景観」への強い違和感・嫌悪感(筆者の主観)

4.「ビジネス環境」(主に大手企業の事務職)においては、「社会的強者」(男性・上位階級者など)に対する過度で際限のない「誹謗中傷(所謂 Harassment)認定」に忌避感と疲弊が増している。筆者には、この(平たく表現すれば)「強い者いじめ」は「社会的弱者」からの逆差別の一種と認識される。この風潮は「昭和」の価値観からはあまりに「無粋」(ぶすい)で「狭量」(きょうりょう)に映り、「おおらか」で「寛容な」人間関係を失わせ「無味乾燥」な方向に向かっている。Harassment 関連の喧騒(主流派大手メディアによる報道)は、まさに過度な「多様性」尊重と Political Correctness の最たるものといえる。2000年代以降は、「服装規定の大幅緩和」(軽装の通年許容)や「対等意識の推奨」(職場での「役職呼称」や「固定席」の廃止)が定着している。昨今では「働き方改革」や DX(Digital Transformation)の名の下に、新型コロナウイルス感染拡大への対処策(特別措置)に端を発する勤務地選択の自由化(「在宅勤務」の奨励)が常態化。この様に我が国の労働環境は従来からの「規律」や「秩序」が「弛緩」し、「多様性」に対して際限なく寛容な方向に流されている様に思われる。

(※2)承認欲求:米国の心理学者「Abraham Harold Maslow」の説く「欲求段階説」の第4段階

【後日追記】『米企業に「出社強制」の波』 2024年(令和6年)9月22日付、日本経済新聞(朝刊)より

本年に入り、米国企業における「働き方」がようやく「原則、出社」に回帰しつつある。日本経済新聞社の調査によると、IT 大手の Amazon.com, Inc. や IBM(International Business Machines Corporation)、また流通大手の Walmart Inc. や金融大手の Bank of America Corporation など、主要100社のうち58社で「週3日乃至(ないし)5日の出社」を義務付ける発表が目立つ。さらにはこれに拒否・違反した場合の懲戒処分も課されるなど、その方向性は堅固なものとなりつつある。生産性や倫理の低下がみられた「(多様な)働き方」をコロナ禍前の状態に戻したい「経営側の本意」が率直に表明され出すとともに、「働く(実社会と関わる)ことの本質」へと立ち戻る「潮目の変化」が窺える。

5.こうした状況を(西側民主主義国の)「国際潮流」として捉えると、「多様性」や「平等」また「グローバル化」(Globalization)等を免罪符に、「個人の自由」の過度な尊重と「社会秩序」の崩壊、また「社会的弱者・少数者の有り様」を含んだ「伝統的価値観」の縮退を感じる。同時に、この数十年間の長い周期における国際政治の力学、すなわち政治社会思想における「リベラル」(Liberalism)の拡大と「保守」(Conservatism)の縮退、また Political Correctness の際限なき跋扈が感じ取れる。そしてこれらの潮流は往々にして「二重規範」(Double Standard)を生じつつ、不可逆的に進行している様に思われる。

6.これに関係するものとして「母国語教育(政策)」は、国家主権や「国体」(國體/国家体制)護持の要諦に関わる。「日本語の誤用・違和感」(憫然たる誤用、過度の省略・短縮、冗長表現、語尾伸ばし、稚拙化等)、また「外来語の濫用・誤用」(日本独自の創作である「和製外国語」や、外国語のカタカナ表記による「カタカナ語」、特に原語の不適切な形での省略・短縮)が問われて久しい。時代を経るごとにその状況は深刻化・全世代化し、一定の節目で国家としての指針策定や是正が図られる必要性を感じる。筆者が昨今の日本語の誤用に対して強い違和感・嫌悪感を覚える中、ここでは「外来語の濫用・誤用」の問題について触れる。他国文化の理解や外国語の習得など本来の趣旨から外れ、「表語(表意)文字」(Ideogram)である日本語(漢字)から「表音文字」(Phonogram)の英語等(適切とは言い難い「和製外国語」「カタカナ語」)へ、さらには Alphabet の羅列である「略語」(Abbreviation)「頭字語」(Acronym)などへの過度な置き換えが、主流派大手メディアを含む社会のあらゆる領域で蔓延している。昨今ではもはや日本語としての体を成さず、言葉の持つ「意味」や「本質」が耳障りの良い「美辞麗句」(Flowery Words)で覆い隠された感すら覚える。同時にこれが、日本人の「英会話」(原語で聞き、話す能力)の上達を阻んでいる要因でもあろうと考える。

③白河の 清きに魚も 棲みかねて 元の濁りの 田沼恋しき

フランス人貴族の政治思想家 Alexis de Tocqueville は、その著書『De la démocratie en Amérique(アメリカの民主政治』の中で、「民主主義」とは多数者の専制」(Tyranny of the Majorityであると説いている。すなわち、「民主主義」は多数派の「世論」による専制政治であると断じ、少数派の意見が排除され、大勢に順応し沈黙することを強いられる、社会の「同調圧力」であると指摘した。しかし、多数派の意見が少数派のそれより常に優れ、また「正論」であるとは限らず、むしろ「正論」は概して少数派から発せられるものかもしれない。

千思万考するに古今東西、それぞれの社会において共有された「価値観」や「時代精神」(Zeitgeist)が存在し、後世においてもそれらは「善悪の彼岸」(Jenseits von Gut und Böse)(※3)で受けとめられるべきと思われる。諸事兎角(とかく)、「改革」「変化」を是として「多様性」の喚起に喧しい(かまびすしい)昨今、「守旧」「護持」の選択肢や「緩んだ箍(たが)を締める」観点も時として肝要であろうと思われる。また行き過ぎた「平等」の追及は「悪平等」と化し、個々の特性や適性に叶った「公平」に眼目が置かれるべきと思われる。

平和に慣れた「元禄」の世に民(たみ)を大いに惑わせた『生類憐みの令(しょうるいあわれみのれい)』、1920年代に米国で施行された飲用アルコールの製造・販売等を禁止した『禁酒法』(Prohibition)、こうした事例が頭を過る(よぎる)。「多様性」も「政治的適正性」も行き着くところ、一事が万事『過猶不及(過ぎたるは猶及ばざるが如し』。「昭和」の御代が終焉し「平成」の30年を経て世はすでに「令和」。ある種の「過保護」環境ともいえる社会の中核を占め始めた若い世代へ、こうした認識が受容されんことを願う。『白河(しらかわ)の 清きに魚(うお)も 棲み(すみ)かねて 元の濁り(にごり)の 田沼(たぬま)恋しき』

(※3)善悪の彼岸:ドイツ人哲学者 Friedrich Nietzsche(ニーチェ)による1886年刊行の著書、既存のキリスト教的道徳性を批判し、善悪を超えた領域に立脚することを提唱

【後日追記】「日本電信電話株式会社」の澤田純会長は、2023年(令和5年)7月「一般社団法人京都哲学研究所」(京都哲学研究所 (k-philo.org))の設立を主導。「日経ビジネス」2024年(令和6年)10月21日号、新連載「禅と哲学」における同会長インタビューの中で、「会社のパーパスとは価値観であり、価値観を創っていくのが哲学。一段深いところに降りることが大切。」と唱えている。

※参考文献

佐伯啓思『さらば、民主主義―憲法と日本社会を問いなおす』、2017年(平成29年)、朝日新聞出版
Alexis de Tocqueville、岩永健吉郎(訳)『アメリカにおけるデモクラシーについて』(原題 仏:De la démocratie en Amérique)、2015年(平成27年)、中公クラシックス
澤田純『パラコンシステント・ワールド―次世代通信 IOWN と描く、生命と IT の<あいだ>』、2021年(令和3年)、NTT 出版
Lee Edwards 、渡邉稔(訳)『現代アメリカ保守主義運動小史』(原題:A brief history of the modern American conservative movement)、2008年(平成20年)、明成社
Lee EdwardsLeading the Way: The Story of Ed Feulner and the Heritage Foundation』, 2013

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