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【第9回】髙島屋「いつも、人から。」<其ノ弐>―「上品會」(じょうぼんかい)―

※本稿は右記の一次資料に依拠、参照の上、執筆しています。『髙島屋百五十年史』、1982年(昭和57年)、髙島屋百五十年史編纂委員会

【第4回】に続いて今回も、大阪市浪速区は日本橋の「髙島屋史料館」(https://www.takashimaya.co.jp/shiryokan/)を訪れ、合わせて大阪市中央区は今橋の「大阪美術倶楽部」また同区難波の「髙島屋大阪店6階 きもの売場」にも足を運びました。向学のため当社海外渉外顧問のWolf筆者内縁)を帯同しました。

筆者が十年 ( ととせ )以上仕えた、「株式会社髙島屋」(高島屋 (takashimaya.co.jp))の創業家初代、飯田新七氏は京都の米穀商、飯田儀兵衛氏長女の婿養子となったのち分家独立、1831年(天保2年)正月、京都・烏丸松原で古着木綿商を開業しました。その折、本家(飯田儀兵衛家)が近江国高島郡(現:滋賀県高島市)出身で屋号が「たかしまや」であったことにちなみ、飯田新七氏も屋号を「たかしまや」と称しました。1919年(大正8年)に「株式会社髙島屋呉服店」が設立され、1930年(昭和5年)には「株式会社髙島屋」へ改称、以来同社は創業190年余にわたり関西資本で独立系の老舗百貨店として広く知られています。

「髙島屋史料館」は、創業家で「株式会社髙島屋」4代目社長の飯田慶三氏(※1)の提唱により、1970年(昭和45年)、株式会社設立50周年記念事業の一環として、髙島屋東別館3階に開館しました。同館は、呉服を中心として発展してきた同社の歴史を知り、業務上の参考に供することを目的としたものでした。なお飯田慶三氏は社長就任と同年、日本百貨店協会の第3代会長に就任し、業界の発展にも寄与しています。同氏は1958年(昭和33年)、ニューヨーク5番街に「ニューヨーク髙島屋」を、続く1959年(昭和34年)には横浜駅西口に「横浜髙島屋」を開店するなど同社の発展に尽くし、1960年(昭和35年)に社長を退いて会長に就任、1993年(平成5年)逝去。従四位勲二等瑞宝章。(※2)(※3)

同社は個人経営の古着木綿商として1831年(天保2年)に業容を開始、1855年(安政2年)に呉服木綿商へ転換ののち、1909年(明治42年)に「髙島屋飯田合名会社」へ会社組織化、そして1919年(大正8年)「株式会社髙島屋呉服店」として株式会社組織へ移行し、1930年(昭和5年)に「株式会社髙島屋」として本格的な百貨店経営に乗り出しました。この様に社会情勢に応じて柔軟な変容をみせるとともに、同社は呉服をその業容の礎としています。「呉服の髙島屋」を代表する店格催である「上品會」(じょうぼんかい)は、染織五芸<織(おり)・染(そめ)・繍(ししゅう)・絞(しぼり)・絣(かすり)>の向上を目指して、絹の芸術を極める名匠・名家の上作を観覧する会です。1936年(昭和11)年、千總(ちそう)<友禅>、矢代仁(やしろに)<織>、龍村(たつむら)<帯>の染織三名家の協力を得て開催された「染織上品會」がその始まりです。大東亜戦争による一時休会ののち、1953年(昭和28年)に再開、現在まで回を重ねています。

「飜古為新(ほんこいしん)―古きを飜(ひるがえ)して新しきを為す―」は同会の会風であり、古典や伝統をふまえながらも縛られることなく、かつ流行にとらわれることなく、時代にふさわしい呉服を創造・発表する場となっています。作り手である同人と、売り手である髙島屋が、切磋琢磨して日本染織の最高峰を志す上品會。その名の通り、各同人の卓越した意匠・技術による出品作の中から、毎年厳正な鑑審査を経た上質な作品のみが入選作品となります。現在、上品會同人は、<秋場(あきば)・岩田(いわた)・川島(かわしま)・大羊居(たいようきょ)・龍村(たつむら)・千切屋(ちきりや)・千總(ちそう)・矢代仁(やしろに)>(五十音順)の八名家となっています。なお上品(じょうぼん)とは最高級のもの、上等なものを意味します。(※4)

株式会社龍村美術織物」について、1894年(明治27年)に初代龍村平藏氏(大阪博労町、現:大阪市中央区生まれ)が織物業を創業。「織りの技法に創意工夫を加えた創造」と「古の織物を徹底的に研究する復元」の二つの世界に没頭した同氏の作品は、かの有名な文豪芥川龍之介氏に「恐るべき芸術的完成」と言わしめ、その精神と技は、大正、昭和、平成、令和と時代を超えて受け継がれています。同氏と髙島屋とは、1898年(明治31年)に、同氏の叔父(田村太兵衛氏、のちに初代・大阪市長)が経営していた「丸亀屋」(田村太兵衛呉服店)の店舗および商品全部を譲り受ける形で大阪・心斎橋へ進出、これとともに髙島屋が同氏の商いの指導や援助を行うなど、深い関わりと長い歴史があります。この心斎橋店は髙島屋が飛躍する一つの契機となり、同氏にとっても織物業の拡大を果たす好機となりました。

1927年(昭和2年)、髙島屋で「第一回錦帯作品展」を開催。そして大東亜戦争後の1955年(昭和30年)に、髙島屋創業125周年記念催として復活「龍村平藏作錦繍美術展」を開催。さらに大阪店新館完成時には「龍村コーナー」を開設するなど、両者はますますその結び付きを強くしていき、「龍村平藏作錦帯」はオリジナル商品「龍村錦帯」(たつむらきんたい)として今日に至っています。この様に「龍村錦帯」は、四代にわたる龍村平藏各氏と髙島屋が、膨大な資料の中から蘊蓄(うんちく)を傾けて制作してきた髙島屋オリジナルの帯であり、美術織物の最高峰を志すブランドとなっています。(※5)

(※1)飯田慶三氏:創業家で、1952年(昭和27年)より「株式会社髙島屋」の4代目社長、包装紙モチーフのバラを提唱
(※2)出典:『三丘同窓会会員名簿 第44号』、2022年(令和4年)12月、三丘同窓会、飯田慶三氏は(旧制)大阪府立堺中学校の第21期で大正9年3月卒業
(※3)出典:『三丘百弐十年』、pp.48-49、三丘人物誌『実業家 飯田慶三 髙島屋 4代目社長 社業発展に貢献』、2015年(平成27年)10月、大阪府立三国丘高等学校 創立百二十周年記念事業実行委員会
(※4)出典:「髙島屋」ウェブサイト(上品會 | 高島屋の呉服 | タカシマヤ (takashimaya.co.jp)
(※5)出典:「髙島屋」ウェブサイト(高島屋の呉服 | タカシマヤ (takashimaya.co.jp)

⇧大阪店6階 きもの売場、「上品會」および「龍村錦帯」作品の店頭ディスプレー

⇧大阪店では、「大阪美術倶楽部」で「大きもの祭」を開催(第72回「上品會」販売会)、2024年(令和6年)6月、(右下)同ビルの角に建つ浪速の豪商であった旧鴻池家の本宅跡碑、1947年(昭和22年)、美術界に由緒ある鴻池男爵家本邸の土地家屋を同倶楽部が購入

⇧大東亜戦争後に再開した第1回「上品會」会場における、初代龍村平藏氏と飯田慶三氏、1953年(昭和28年)

⇧<参考>『髙島屋百五十年史』、(左下)「店是」、(右下)「ごあいさつ」飯田新一氏(創業家で「株式会社髙島屋」5代目社長)

⇧<参考>『髙島屋百五十年史』、「歴代店主・社長」および飯田慶三氏(創業家で「株式会社髙島屋」4代目社長)

⇧<参考>(左上)『三丘同窓会会員名簿 第44号』、2022年(令和4年)12月、三丘同窓会、(右上)『三丘百弐十年』、2015年(平成27年)10月、大阪府立三国丘高等学校 創立百二十周年記念事業実行委員会、(下)(同)pp.48-49、三丘人物誌『実業家 飯田慶三 髙島屋 4代目社長 社業発展に貢献』

⇧<参考>大阪府立三国丘高等学校/(旧制)大阪府立堺中学校、(上)西門、筆者も学び愛着ある「昭和校舎」は現存せず、(下)正門と「平成校舎」

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