【第45回】日本神話の神々《其ノ二》初代・神武天皇(First Emperor of Japan, Jinmu)と建国伝承《前篇》―神武天皇陵(畝傍山東北陵)参拝―

※本稿の内容は筆者の個人的見解であり、筆者が所属する組織の公式見解を示すものではありません。
「紀元節(Empire Day)」(建国記念日)も間近い如月(2月)吉日、今冬一番の冷え込みに小雪舞う中、奈良県は橿原市の「神武天皇陵/畝傍山東北陵」 -天皇陵-神武天皇 畝傍山東北陵(じんむてんのう うねびやまのうしとらのすみのみささぎ) を参拝しました。神武天皇陵は周囲約100m、高さ5.5mの八稜円形(はちりょうえんけい)であり、幅16mの周濠が巡らされています。また「大和三山」の一つ、霊峰「畝傍山」(うねびやま)(標高:約199m)から文字通り東北の麓(ふもと)に位置しています。
「日本書紀」および「古事記」の伝承によると、「神日本磐余彦火火出見天皇」(かむやまといわれひこほほでみのすめらみこと)(※1)は、日向(ひむか/現在の宮崎)の「高千穂の宮」から瀬戸内海を東に進んで難波(現在の大阪)に上陸、生駒の豪族「長髄彦」(ながすねひこ)に阻まれ南下して熊野へ回りました。そこに飛来した「八咫烏」(やたがらす)(※2)<日本書紀では「金鵄」(きんし)(※3)>に導かれて吉野の険しい山を越えて大和に入ります。周辺の勢力を従え最後に宿敵・賊軍の長髄彦を倒して大和を平定(神武東征)。「紀元前660年2月11日」(皇紀元年/辛酉年1月1日)に畝傍山の東南、「橿原宮」(かしはらのみや)(皇居)にて、第一代天皇「諡(おくりな)・神武天皇」に即位されたとあります。
天皇家は世界最古・最長の万世一系(ばんせいいっけい)による王家・王朝(Dynasty)で、令和の今上陛下(諱・徳仁/なるひと)で第126代となります。「日本書紀」および「古事記」の伝承によると、2,600年以上の歴史を有し、実在が確かな天皇から数えても世界最古・最長といえます。6世紀前半に実在し血筋の連続性が確かとされる、第26代「継体(けいたい)天皇」から数えても100代、1,500年以上を経ています。
(※1)神日本磐余彦火火出見天皇:日本書紀における諱(いみな)
(※2)八咫烏:古事記における神武天皇東征の際、熊野から大和へ入る山中を導くため「高御産巣日神」から遣わされたとする、3本足の大きな烏(からす)(Three-legged Raven)
(※3)金鵄:日本書紀における神武天皇東征の際、熊野から大和へ入る山中を導くため「天照大御神」から遣わされたとする、金色に光り輝く鳶(とび)(Golden Kite)

⇧玉砂利が敷き詰められた表参道から望む拝所の様子

⇧深く生い茂る森林に覆われた広大な陵域は、初代天皇陵に相応しい神気漲る(みなぎる)荘厳な佇まい、「宮内庁書陵部 畝傍陵墓監区事務所」管理

⇧(写真上)神武天皇陵に程近い「奈良県立 橿原考古学研究所 附属博物館」 奈良県立橿原考古学研究所附属博物館[トップページ] 、(写真左下)1階スペースに展示の奈良盆地の模型、手前中央に窺えるのは、北方の雄岳 (517m) と南方の雌岳(474m) 2つの山頂を有する「二上山」(にじょうさん)
同博物館は、吹き抜けの趣きある中庭を周り込み鑑賞する展示室の配置が特徴で、奈良県内の多くの遺跡から出土した資料を通じ、日本史で重要な位置を占める奈良の歴史を紹介。旧石器時代~縄文・弥生時代、古墳時代を経て、飛鳥・奈良・平安~室町時代に関する常設展「大和の考古学」や、春秋2回の特別展などが開催されています。とりわけ古墳時代までの展示室にみられる、大小様々な石器、土器、埴輪、土偶、銅鐸、銅鏡、勾玉などの数々が特筆に値(あたい)します。

⇧(写真左上)前庭に展示公開の「束明神(つかみょうじん)古墳」実物大・復元石槨(せっかく)、(写真右)「遮光器土偶」(しゃこうきどぐう)をあしらった記念品
奈良県高市郡高取町佐田の束明神古墳は「草壁皇子」(岡宮天皇)御陵と指定されており、横口式石槨は凝灰岩の切石約500個で精緻に積み上げられ、古代のこうした構築技術(黄金分割等)は現代の視点でも比類がありません。また遮光器土偶は縄文時代に東北地方を中心に作られ、遮光器を付けたかの様な頭部や特異な形状の体部(衣服)、全身を覆う特異な文様が現代の宇宙飛行士とも見紛う、世界の考古学分野でも有名な土偶です。
【参考】日本神話の系図(主に「古事記」表記を参照し筆者作成、薄青:男神/薄赤:女神)※内容は適宜、精査中につき未完成 家系図をエクセルで作る方法を動画で解説!無料テンプレート付き! | 家系図作成の家樹-Kaju-


※参考文献
『神武天皇の歴史学』、2024年(令和6年)、外池昇、講談社