【第30回】男爵・若槻元首相(Baron, Former Prime Minister of Japan, Wakatsuki)挿話《其ノ三》―最後の元老・西園寺公《後篇》実弟・友純公―
※本稿の内容は筆者の個人的見解であり、筆者が所属する組織の公式見解を示すものではありません。
筆者の母方の遠い姻戚(relative by marriage)にあたる男爵・若槻禮次郎(れいじろう)元首相は、その政治人生において最後の「元老」である公爵(Prince)・西園寺公望(きんもち)公と誼(よしみ)をもちました。前回【第29回】のテーマに続いて、今回は西園寺公の実弟である住友友純(ともいと)公と住友財閥について触れたいと思います。
①西園寺公望公の実弟・住友友純公の功績
西園寺公は1849年(嘉永2年)、「清華家」(せいがけ)(※1)の一つであり、東山天皇の6世子孫である従一位右大臣・徳大寺公純(きんいと)公の第2子として出生。2歳の折、同族の「清華家」西園寺師季(もろすえ)公の養子となったのち、師季公の死去に伴い幼年にして家督を相続しました。実兄は、明治天皇の「侍従長」(じじゅうちょう)などを務めた公爵・徳大寺実則(さねつね)公。そして実弟の男爵・住友友純(ともいと)公は1865年(元治元年)、徳大寺家の別荘「清風館」(のちに「清風荘」)で徳大寺公純公の第6子として出生。1892年(明治25年)に「住友家」へ入家(にゅうか/婿入り)、12代・吉左衛門友親(きちざえもんともちか)公の母、登久(とく)の養嗣子となっています。
公は翌1893年(明治26年)「住友家」15代当主となり吉左衛門を襲名、新居浜の「別子(べっし)銅山」の鉱業経営などの事業を拡大。1895年(明治28年)に大阪の「本店」を富島町から中之島へ移して「住友銀行」を創設。1897年(明治30年)貴族院議員に互選。1908年(明治41年)には、「本店」及び「銀行本店」を北浜の新館に移し、翌1909年(明治42年)「住友本店」を「住友総本店」としました。1919年(大正8年)には「大阪北港株式会社」を設立、現在の「住友商事株式会社」は大東亜戦争後にこれを継承するものです。公はさらに1921年(大正10年)「住友合資会社」を設立、「総本店」の事業を継承して社長に就きました。1925年(大正14年)には、「住友信託株式会社」(現:三井住友信託銀行株式会社)を設立しています。こうして公は近代「住友財閥」の発展に寄与し、経営を歴代の「総理事」などの経営陣に委嘱し、当主は「君臨すれども統治せず」の立場で自らはその象徴に徹しました。
(※1)清華家:公家の家格の一つで最上位の「五摂家」(ごせっけ)に次ぐ序列、太政大臣になることのできる主に7家(三条・西園寺・徳大寺・久我・花山院・大炊御門・菊亭)が該当
⇧「大阪府立中之島図書館」、「住友家」15代吉左衞門友純公の寄贈によるもので1904年(明治37年)竣工、1974年(昭和49年)国の重要文化財に指定
②近世の住友家と三大財閥比較
「住友」は、「三井」や「三菱」と並ぶ日本三大財閥の一つとされています。また世界においても最も古い歴史を持つ財閥とされています。「住友」の歴史を辿ると「始祖」「家祖」「業祖」の3人の実像が窺えます。
「始祖」 桓武天皇の曾孫・高望王の22代目に忠重公が現れ「住友姓」を称し、室町将軍に仕えて備中守に任じられたとされています。この武家である忠重公が「始祖」とされています。
「家祖」 忠重公から数えて8世にあたる政友(まさとも)公が、武士から僧侶となり「文殊院空禅(もんじゅいんくうぜん)」と称しました。こののち1600年代前半の寛永年間に還俗(げんぞく)して京都で書林と薬舗を商う「富士屋」を開き、商家「住友家」を興したのが「家祖」(初代)とされています。同公は商人の心得を説いた『文殊院旨意書(もんじゅいんしいがき)』を残し、その教えは今も「住友の事業精神」の基礎となっています。
「業祖」 政友公の姉婿、蘇我理右衛門(りえもん)公は、1590年(天正18年)に京都市に銅吹き(銅精錬)と銅細工業(屋号「泉屋/いずみや」)を営み、泉州堺浦に来た南蛮人のハクスリー(Huxley と思われる)/白水(はくすい)から伝習した、粗銅(あらどう)から銀を分離する精錬技術である「南蛮吹き」を苦心の末に開発しました。のちにこの銅吹所が「住友家」の家業となったため、同公を「業祖」と崇めました。
「家祖」政友公には一男一女があり、一男の政以公は父の商売「富士屋」を継ぎ、一女は「業祖」理右衛門公の長男・友以(とももち)公を養子に迎えています。この代で「家祖」「業祖」両家の血が結合したことから、「住友」2代目は友以公が継いでいます。友以公は大坂に進出し、同業者に「南蛮吹き」の技術を公開、これにより「住友」「泉屋」は「南蛮吹きの宗家」として尊敬されるとともに、大坂は我が国銅精錬業の中心地となりました。また「泉屋」は銅貿易をもとに糸、反物、砂糖、薬種など輸入品を扱う「貿易商」ともなっていきます。
友以公の五男・友信(とものぶ)公は「住友吉左衛門」を名乗り、秋田の阿仁銅山、備中の吉岡銅山などの経営に乗り出し幕府御用の銅山師となって日本一の銅鉱業者へと発展させます。一方で友以公の末子の友貞(ともさだ)公は「両替商」を大坂と江戸で開始しています。これが1662年(寛文2年)頃のことで、「住友家」は江戸時代前期において鉱業と金融業を握る Konzern を確立し、慶応初期には日本の四大資産家の1つに数え上げられました。
「中興の祖」 幕府御用達となった友信公以来、住友家当主は代々「吉左衛門」を名乗ることになります。友信公の子である2代目吉左衛門友芳(ともよし)公が、1691年(元禄4年)に幕府の許可を得て新居浜に前述の「別子銅山」を開坑します。その後283年間にわたり銅を産出し続け総産出量は約65万トンにおよび、「住友」の事業の根幹を支え続けました。その功績を称えられた友芳公は「中興の祖」とされます。
なお、「住友」では「井桁」(いげた)を「商標」としています。その由来は1590年(天正18年)に理右衛門公が前述の「泉屋」を興し、その際「いずみ」を表すものとして「井桁」を用いたのが始まりです。「井桁」は昔から商家の暖簾(のれん)などに多く使われ、他と区別がつきにくいこともあり、「住友」では1913年(大正2年)に独自の形状や寸法割合を創案し、現在もこれが踏襲されています。
⇧(写真上)旧「住友本社(住友ビルディング)」(現:三井住友銀行大阪本店ビル)、(写真下)同ビルを中心とした「中之島」遠景、手前に望むのは「日本銀行大阪支店」と「堂島川」
「住友ビルディング」の外装石は「黄竜山石(きたつやまいし)」と大理石を混ぜた擬石(ぎせき)であり、穏やかな薄黄色の色合いが周囲に存在感を醸し出します。
⇧「生きた建築ミュージアム事業」(大阪市:生きた建築ミュージアム事業 (…>住宅施策>建築物等を活かした都市・地域魅力の創出))の一環として、毎年10月最終の土曜・日曜のみ一般公開される「共用応接ロビー・ステンドグラス」(三井住友銀行 大阪本店ビル | プログラム紹介 | 生きた建築ミュージアムフェスティバル大阪2024)
同ビルは1926年(大正15年)に第一期(北側)が竣工し、設計は「住友合資会社」工作部によります。北・東・西面の各エントランスは竜山石積み円柱に堂々としたイオニア式オーダーが施されています。また「別子銅山」を経営した「住友」の建物らしく、門扉や照明、雨樋、gargoyle(動物などを象った吐水口)に至るまでブロンズ製で、細かな細工が端正な外観をいっそう印象的に見せています。
この「住友合資会社」工作部に関連して「長谷部・竹腰建築事務所」が挙げられます。同事務所は建築の設計監督を業とし、関東大震災に続く昭和金融恐慌に伴い「住友合資会社」が1933年(昭和8年)に工作部を廃止した直後、同部長の長谷部鋭吉(はせべえいきち)氏と同部建築課長の竹腰健造(たけこしけんぞう)氏により創立されました。これが現在の「株式会社日建設計」の源流にあたります。(※2)
(※2)三井住友銀行大阪本店ビル 三井住友銀行大阪本店ビル | 住友の歴史 | 住友グループ広報委員会
株式会社日建設計 4-1 長谷部・竹腰建築事務所の設立 -大恐慌の嵐の中へー | NIKKEN SEKKEI LTD
⇧旧・三大財閥の比較、「週刊ダイヤモンド」(2024/11/2・9 合併特大号)(特集)「三菱・三井・住友 最強財閥」(数値データは「株式会社東京商工リサーチ」による算出)を参考に筆者作成
※参考文献
『元老―近代日本の真の指導者たち』、伊藤之雄、2016年(平成28年)、中公新書
『「華族」の知られざる明治/大正/昭和史』、2021年(令和3年)、株式会社ダイアプレス
国立国会図書館「近代日本の元老たち」 近代日本の元老たち|近代日本人の肖像 | 国立国会図書館
(同)西園寺公望|近代日本人の肖像 | 国立国会図書館
(同)住友友純|近代日本人の肖像 | 国立国会図書館
住友グループ広報委員会 住友の歴史 | 住友グループ広報委員会
住友商事株式会社 住友の歴史から | 住友商事
株式会社日建設計 2-2 住友春翠に始まる | NIKKEN SEKKEI LTD
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