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【第23回】東京・日本橋紀行《3/4》―「東京証券取引所(Tokyo Stock Exchange)と兜町」篇―

※本稿の内容は筆者の個人的見解であり、筆者が所属する組織の公式見解を示すものではありません。

(【第22回】から続く)

依然厳しい蒸し暑さの残る8月下旬、東京都中央区日本橋の「株式会社東京証券取引所」(以下、「東京証券取引所」)日本取引所グループ (jpx.co.jp))を訪れ、去る2000年(平成12年)5月に開設された、「東証Arrows」(情報提供スペース)内の「マーケットセンター」や「証券史料ホール」などを見学しました。また「兜町」(かぶとちょう)周辺各所を巡り見聞を広めました。

⇧「みずほ銀行兜町支店」外壁の「兜町歴史地図」

「東京証券取引所」が所在する地名の「兜町」は、米国の「ウォール街」(Wall Street)や英国の「シティ」(City of London)同様、我が国の金融街また証券市場や証券業界の代名詞とされてきました。その由来には諸説あり、一つは「承平の乱」(西暦935~940年)にて、「藤原秀郷(ふじわらのひでさと)公」が「平将門(たいらのまさかど)公」の首を打って京へ運ぶ際、その打首に沿えていた兜だけを当地の土中に埋めて塚を作って供養し、この塚を当時「兜山」と呼んだところ、そこに「兜神社」が建てられたというもの。その他には、「前九年の役」(西暦1050年代)や「後三年の役」(西暦1080年代)にて、源義家(みなもとのよしいえ)公」が奥州征伐に向かう際、岩に兜をかけて戦勝を祈願したところ、この岩を「兜岩」と呼んだ、また奥州から凱旋の折、東夷鎮定の祈願を兼ねて記念のため兜を土中に埋めて塚を作ったところ、これを当時「兜塚」と呼んだというものです。なお現在「東京証券取引所」の道向かい(北側)に建つ「兜神社」は、長らく証券業界の守り神とされています。

※出典
株式会社日本取引所グループ」(沿革 | 日本取引所グループ (jpx.co.jp)
平和不動産株式会社」(日本橋兜町の歴史・史跡|街づくりに貢献する会社へ|平和不動産株式会社 (heiwa-net.co.jp))

⇧「東京証券取引所」遠景

「東京証券取引所」の前身である「東京株式取引所」は、1878年(明治11年)5月制定の「株式取引所条例」に則り、同月、我が国初の公的な証券取引機関として設立され、6月1日から「兜町」で取引を開始しました。その創立には「渋沢栄一公」や「今村清之助(いまむらせいのすけ)公」が中心となって尽力、「深川亮蔵」「三井養之助」「三井武之助」「木村正幹」「益田孝」「福地源一郎」「三野村利助」「小室信夫」「小松彰」「渋沢喜作」(いずれも敬称略)が発起人に名を連ねています。

「渋沢栄一公」は、その生涯において「東京株式取引所」の他、「第一国立銀行」(現:株式会社みずほ銀行)や「東京商法会議所」(現:東京商工会議所)をはじめ、約500におよぶ企業設立等に関わり、「日本資本主義の父」と称されています。また本年7月3日の新紙幣(日本銀行券)発行に伴い、新一万円札の肖像に選ばれています。また「今村清之助公」は、「日本の鉄道王」と称された実業家で、「今村銀行」(現:株式会社みずほ銀行)「角丸証券」(現:「みずほ証券株式会社」)を設立するなど、公債売買市場の有力者でありました。

「東京証券取引所」は1949年(昭和24年)の設立。2001年(平成13年)に組織変更(株式会社化)を経て、2013年(平成25年)1月、「株式会社大阪証券取引所(Osaka Securities Exchange)」(以下、「大阪証券取引所」)と経営統合、「株式会社日本取引所グループ」(JPXJapan Exchange Group)の「東京証券取引所」へ商号変更されました(「大阪証券取引所」は「大阪取引所」へ商号変更)。これにより、株式の「現物取引」はすべて「東京証券取引所」に移管されるとともに、「東京証券取引所」で扱われていた「TOPIX先物」、「長期国債先物」などの「デリバティブ取引」が「大阪取引所」に移管されました。

また2022年(令和4年)4月には市場区分の見直しが行われ、従前の「市場第一部」「市場第二部」および「マザーズ」「JASDAQスタンダード」「JASDAQグロース」から、新しく「プライム」「スタンダード」および「グロース」の3市場へ移行されました。 これにより3市場のコンセプトは次の通り明確化されました。
「プライム」多くの機関投資家の投資対象になりうる規模の時価総額(流動性)を持ち、より高いガバナンス水準を備え、投資者との建設的な対話を中心に据えて持続的な成長と中長期的な企業価値の向上にコミットする企業向けの市場
「スタンダード」公開された市場における投資対象として一定の時価総額(流動性)を持ち、上場企業としての基本的なガバナンス水準を備えつつ、持続的な成長と中長期的な企業価値の向上にコミットする企業向けの市場
「グロース」高い成長可能性を実現するための事業計画及びその進捗の適時・適切な開示が行われ一定の市場評価が得られる一方、事業実績の観点から相対的にリスクが高い企業向けの市場

※出典
「東京都中央区役所」(中央区ホームページ/東京証券取引所所蔵文書(とうきょうしょうけんとりひきじょしょぞうもんじょ) (chuo.lg.jp)
公益財団法人 渋沢栄一記念財団」(東京株式取引所市場 - ゆかりの写真|渋沢栄一ゆかりの地|渋沢栄一|公益財団法人渋沢栄一記念財団 (shibusawa.or.jp)
第13巻(DK130030k)本文|デジタル版『渋沢栄一伝記資料』|渋沢栄一|公益財団法人渋沢栄一記念財団 (shibusawa.or.jp)
「株式会社日本取引所グループ」(市場構造の見直し | 日本取引所グループ (jpx.co.jp)

「株式会社日本取引所グループ」は、取引所システムへの接続サービスに、災害時における事業継続性を確保したネットワークインフラの「arrownet」を導入しています。また売買システムには、「arrowhead」(立会内取引)および「ToSTNeTシステム」(立会外取引)が導入されており、株式等の取引を行っています。このうち「arrowhead」は、2010年(平成22年)1月4日に稼働した、世界最高水準の高速性・信頼性・拡張性を兼ね備えた、「現物商品」の売買システムの呼称です。構築・運用ベンダーは「富士通株式会社」が担っています。直近では、注文件数の増加、短時間での注文集中、投資家の新しい要求等の株式市場の環境変化に対応するため、2019年(令和元年)11月5日に三世代目へのシステム更改を行っています。対象取引は現物商品にかかる株式、「Convertible Bond」(転換社債)等のオークション取引です。

「arrowhead」では、大まかに次の流れで注文等を処理しています。①国内外の投資家(証券会社)から広く注文を受け付け、売買を成立させ結果を返信。②受け付けた値段(気配)や約定値段(株価)は、相場情報として市場へ配信。また、受け付けた注文に関し異常な傾向(誤発注等)がないかを監視するため、売買状況を監理する機能を具備しています。なお、市場を巡る環境変化や多様化する投資家の要求に対応するとともに、市場利用者の利便性や国際競争力、障害回復力をさらに高めていく観点から、2024年(令和6年)11月5日に「arrowhead」のシステム更改が予定されています。初代「arrowhead」から数えて、今回で4回目のシステム更改となります。「障害回復力」向上の観点では、2020年(令和2年)10月1日に発生した当該システム障害(自動系切替の失敗)とそれによる全銘柄の終日売買停止が教訓とされています。

※出典
「株式会社日本取引所グループ」(システム | 日本取引所グループ (jpx.co.jp)

「日経平均株価」が2024年(令和6年)8月5日、1987年(昭和62年)10月19日に発生した「ブラックマンデー」(Black Monday)超えとなる、「4,451円安」と過去最大の下げ幅を記録。翌6日には急反発し「3,217円高」と過去最大の上げ幅を記録。

8月初旬にみられた株価の歴史的乱高下や、激しい値動き(変動幅)が増幅された背景には、投機筋(※1)による「高速取引行為」(※2)があるとの見方も出ています。これは「高頻度取引」(HFT:High Frequency Trading)や「アルゴリズム取引」(Algorithmic Trading)といった、コンピューターを駆使した大量で高頻度な取引の仕組みで、AI(Artificial Intelligence/人工知能)搭載プログラム(アルゴリズム)が「ミリ秒」単位で自動売買注文を行うものです。

こうした、投機筋による「高速取引行為」の市場割合は昨今急激に拡大しており、景気サイクルや「ファンダメンタルズ(fundamentals)/経済の基礎的条件」とは異なるところで動いています。今後も、こうした市場変動の歪みが、金融市場や経済活動(実需筋)にどの様に波及するのか注視していく必要があると思われます。

(※1)投機筋:投資額が比較的大きい「機関投資家」や「ヘッジファンド」(hedge fund)などが該当し、短期間に頻繁に売買を繰り返し、値動きの変動自体から利益を得ることを目的としているのが特徴、「ヘッジファンド」は、デリバティブ(derivative/金融派生商品)等を組み合わせて、株式や債券、為替や商品など幅広い商品に投資する私募形式の投資信託で、資産価値の下落リスクをヘッジ(hedge/防御・回避)するもの
(※2)高速取引行為:「金融庁」(高速取引行為者向けの監督指針:金融庁 (fsa.go.jp)

⇧「証券史料ホール」内に展示の「旧 東京証券取引所 本館ビル」のジオラマ、「玄関ホール」上部に配置の四体の男女像は「経済」に関わる4つの要素「工業」「商業」「農業」「交通・通信業」を表現(写真左下)、旧本館ビル「玄関ホール」の撮影写真(写真右下)

⇧(写真左)直径17mの巨大なガラスシリンダーで覆われた「マーケットセンター」、(写真右/上部)回転リング式電光掲示板の株価表示システム(ticker)

往時、証券会社の取引担当者など数千人もの関係者がひしめき合った「立会場(たちあいじょう)」は、1999年(平成11年)4月、売買取引のコンピューター化に伴い閉鎖。現在はその跡地に設置された「マーケットセンター」の内側で、前述の売買システム制御下、取引所職員による監理業務(取引参加者からの売買注文を即時に監視)が粛々と行われています。また株価表示システムは、売買の成立した銘柄と株価が時々刻々と表示されるもので、大阪人である筆者には、大阪市北区梅田一丁目(ダイヤモンド地区)の名所「大阪マルビル」最上部にかつて存在した、回転式の電光掲示板(ニュースや天気予報を発信)を彷彿とさせます。

⇧(写真左上)新規上場セレモニーや「大発会」(だいほっかい)「大納会(だいのうかい)の際に鳴らされる「上場の鐘」、(写真右)「見学回廊」写真展示コーナーの「2004年(平成16年)7月 皇太子殿下 御来訪」と「2002年(平成14年)10月 小泉純一郎内閣総理大臣 訪問」の様子(いずれも当時)

⇧往時の「市場館」における「立会場」と「場立ち(ばたち)」の様子

⇧「証券史料ホール」内の展示品、「東京株式取引所」設立証書(創立證書)

写真左側の証書には、右から順に「深川亮蔵公」「渋沢栄一公」「今村清之助公」「三井養之助公(木村正幹公による代署)」「三井武之助公(木村正幹公による代署)」「益田孝公」など、株主による自記・調印が窺えます。

⇧「証券史料ホール」内の展示品、証券市場の成立と拡大に関する展示(写真上)、「撃柝(げきたく)」(写真右下/左端)

「撃柝」は、取引所が指定した特定銘柄の「始値」及び「終値」の決定時に取引開始と価格決定の合図として、取引所職員の役割である「撃柝係」が柝を入れる(拍子木に似た二枚の檜製の板を打ちならす)際に使用されました。「集団競争売買」(撃柝売買とも)は、多数の売方と買方が特定ポスト(高台)の前に集まり、価格を競いながら売買を集団的に行い、売りと買いの全注文を単一の価格により成立させるものです。この「集団競争売買」が行われていた当時、裂帛(れっぱく)の気合を感じさせる「撃柝」の響きが朝一番の取引開始を告げ、「兜町」の象徴の一つとなっていました。また取引所職員にとって、「撃柝係」として柝を打つためには、5年程度の経験を要するなど特殊な技術が要求され、市場の花形と呼ばれました。

※出典
株式会社日本取引所グループ」(東証Arrows見学 | 日本取引所グループ (jpx.co.jp)

⇧「証券史料ホール」内の展示品、「場電(ばでん)席」で使用された「黒電話」と「ヘッドフォン」(写真上)

⇧「日本橋川」に面して「東京証券取引所」道向かいに建つ「日証館(にっしょうかん)」(写真上)、当地は旧 「渋沢栄一公」邸の跡地(写真下)

「渋沢栄一公」邸は建築家「辰野金吾博士」設計によるもので1888年(明治21年)竣工、1923年(大正12年)の「関東大震災」で焼失に見舞われました。「日証館」は1928年(昭和3年)竣工で、大東亜戦争後の間もない時期、取引所が米軍に接収され市場が閉鎖された間に、同館において代替的に取引が行われ、35社もの証券会社が入居していました。

⇧「みずほ銀行兜町支店(新川支店と併設)」(旧:第一勧業銀行兜町支店、元:第一国立銀行本店)と「銀行発祥の地」銘板(写真上)、「第一国立銀行本店」の初代建築(写真右下)

「渋沢栄一公」は1872年(明治5年)に公布された「国立銀行条例」の制定に尽力、これに基づき1873年(明治6年)当地に開業した「第一国立銀行」の「総監役」(のちに「頭取」)に就任。「日本最初の銀行」として有名な同行本店の初代建築は、木骨石造、ベランダ、日本屋根、塔を組み合わせた和洋折衷のもので「擬洋風建築」の最高峰とされ、錦絵にも描かれた東京名所でありました。同行はまた、「合本(がっぽん)主義」を唱えた「渋沢栄一公」による「日本最初の株式会社」でもあります。

※出典
株式会社みずほフィナンシャルグループ」(みずほFG:〈みずほ〉の成り立ちと変革への取り組み (mizuho-fg.co.jp))

「江戸橋」南詰の「日本橋郵便局」、(写真上)「日本近代郵便の父」と称される「前島密(まえじまひそか)公」の胸像を戴く(いただく)「郵便発祥の地」石碑、(写真左下)(同)銘板

郵便事業創設に関わる同公の建議により、1871年(明治4年)4月20日、「東京―京都―大阪」3都市間で官営の新式郵便業務が開始され、同公は「駅逓権正」(えきていごんのかみ)に任ぜられました。この時当地に新設されたのが、郵便・輸送行政を専管した官庁「駅逓司」(※3)(えきていし)(のちに「逓信省」へと移管・移転)と取扱機関「東京郵便役所」(のちに「日本橋郵便局」)です。「日本橋郵便局」は、江戸時代の「飛脚制度」に代わる「郵便制度」の発祥の地として知られています。同公は、「郵便(ゆうびん)」をはじめ、「切手(きって)」「葉書(はがき)」「手紙(てがみ)」「小包(こづつみ)」「為替(かわせ)」「書留(かきとめ)」など、郵便制度に関わる多くの「大和言葉」(やまとことば)を考案したことでも知られています。

同公はまた電話(逓信)事業の創始者としても知られ、1888年(明治21年)「逓信大臣」の「榎本武揚(たけあき)公」に請われて「逓信次官」に就任、官営による電話事業を開始しました。1890年(明治23年)12月には、東京・横浜市内とその相互間で我が国初の電話の交換業務が開始されました。

※出典
日本郵政株式会社」(前島密‐日本郵政 (japanpost.jp)
「東京都中央区役所」(中央区ホームページ/郵便発祥の地(ゆうびんはっしょうのち) (chuo.lg.jp)
国立国会図書館」(前島密|近代日本人の肖像 | 国立国会図書館 (ndl.go.jp)

(※3)駅逓司:その後「逓信省」から「郵政省」に、現在の「総務省」「日本郵政株式会社(JP)」および「日本電信電話株式会社(NTT)」となる源流機関

(【第24回】へ続く)

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